第二百三十八段  兼好の自慢話 その四 ~書道の知識~

一、人あまたともなひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行堂のうち、竜華院と書ける古き額あり。「佐理・行成のあひだ疑ひありて、いまだ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵つもり、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃きのごひて、各見侍りしに、行成位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。

三塔:比叡山延暦寺の東塔・西塔・横川の常行堂。
佐理・行成:藤原佐理と藤原行成。小野道風と共に三蹟と言われた能筆家。
位署:官位を公文書などに書き記すこと。

「一、人を沢山伴って、三塔を拝み回ることがございました時に、横川の常行堂の中に竜華院と書いてある古き額がある。『佐理・行成の二人の間のどちらであるかの疑いがあって、未だに決まらないと申し伝えている。』と、堂守の僧が大袈裟に言いましたので、『行成ならば裏書あるはずだ。佐理ならば裏書あるはずがない。』と言ったところ、裏は塵が積もり、虫の巣で汚らしかったのを、よく掃き拭って、皆めいめいが見ましたところ、行成の官位・名字・年号、はっきりと見えましたので、誰もが面白がって感心した。」

こういう知識は基本的なものだろうか。それとも、トリビアだろうか。いずれにしても、教養があるとは、どちらもカバーしていることを言うのだろう。兼好は、面目躍如と言ったところだ。「堂僧ことごとしく申し侍りし」とあることから、兼好はそんな基本的なことを確かめようともしない態度に軽蔑気味の思いがあったことが推察される。しかし、長年ほったらかしにしていたのは、そこに思いが及ばなかったからだろうか。誰の書かを知りたければ、額の裏を確かめるのは、直ぐに思いつくことだ。むしろ、どちらかに決めたくなかったからではないか。誰の書かを決められないのも、それはそれで人の関心を引き、一種の魅力にはなる。ならば、兼好がそれを明らかにしたことは、常行堂にとっては迷惑な話だったのかも知れない。もしそうであって、兼好が見抜いていたとすれば、つまらぬ小細工を止めさせたかったのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「名の通ったお宝を持っている自慢」を堂守の僧はしているけれど、書に対する興味も敬意も感じられません。作品を大切に扱っていないし、作品を理解しようともしていない。良いものを持っているから自分の格も高いのだ、とでも言いたいのでしょうか。
    「裏書を確かめれば済むことだろう?」と言い方がぞんざいな兼好、折角の作品がこんな扱いをされていて気分を害したのでしょうね。よく言ってくれました。

    • 山川 信一 より:

      兼好の自慢は、佐理と行成の裏書きの違いを知っていたことに留まらず、堂守の僧をやり込めたことにもあったようですね。

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