《露草の可憐さ》

題しらす よみ人しらす

つきくさにころもはすらむあさつゆにぬれてののちはうつろひぬとも (247)

月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後は移ろひぬとも

「私の着物は露草の花で摺って染めよう。朝露に濡れたその後は、たとえ色が褪せてしまったとしても。」

「すらむ」で切れる。以下は倒置になっている。「うつろひぬとも」の「とも」は接続助詞で、後に述べる事柄に対する条件を表す。
露草の花は、可憐で青く美しい。しかし、朝咲いて昼を待たずに枯れてしまうほど儚い。だから、せめてその花を摺って私の着物を染めよう。もちろん、それだって後には、色が褪せてしまうだろう。けれども、それでも構わない。少しでも長くその色を保つことができるのならば。
実はこの歌は、『万葉集』の巻七にも見える。ただし、そこでは、恋の譬喩歌として扱われている。「あの人に添いたい。たとえあの人の心が変わって他の人に移っても構わない。」という女心をたとえていると言うのである。ところが、貫之は、『古今和歌集』では、それを《露草の可憐さ》秋の歌にした。たとえを〈自然→人事〉ではなく、逆に〈人事→自然〉で用いたものとしている。つまり、露草の花は、儚い女心を連想させる程可憐だと言うのである。

コメント

  1. すいわ より:

    露草のことを「月草」と言うのですね。青い花と青い月。あんなに深い色でもあっという間に色褪せてしまう花、あんなに美しく輝いていても日毎痩せ細り消える月。どちらも心寂しく移ろう様が秋の深まりを伝えるようです。手に取れば消えてしまうような儚い美しさ、だからこそ留めておきたいと思う心の強さ。この対比がより露草の、秋の美しさを強調しているように思います。

    • 山川 信一 より:

      露草の名前の由来は、色が直ぐ着くからだそうです。だから染料に使ったのでしょう。ただ、『万葉集』では、「月草」と「鴨頭草」と書かれています。「鴨頭草」の方は、形状が似ているからでしょう。「月草」は、好ましさ・儚さからでしょうか。いずれにせよ、青から受ける印象、昼を待たずに枯れてしまう儚さによって秋をイメージしたのでしょう。前の歌とは、女性のイメージで繋がっています。

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