第二百三十二段  若者の振る舞い

 すべて人は、無智無能なるべきものなり。ある人の子ども、見ざまなどあしからぬが、父の前にて、人ともの言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にては、さらずともと覚えしなり。又ある人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて、琵琶を召し寄せたるに、柱のひとつ落ちたりしかば、「作りてつけよ」と言ふに、ある男の、中にあしからずと見ゆるが、「古きひさくの柄ありや」などいふを見れば、爪を生ふしたり。琵琶などひくにこそ。めくら法師の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たるよしにやと、かたはらいたかりき。「ひさくの柄はひもの木とかやいひて、よからぬものに」とぞ、ある人仰せられし。若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

「すべて、人は、無智無能であるように振る舞うのがよいのだ。ある人の子どもで、容貌などが悪くないのが、父親の前で、人と何か話をする時に、史書の本文を引いていたのは、賢しこそうには聞えたけれど、目上の人の前では、そんなにしなくてもいいのにと感じられたのである。また、ある人の所で、琵琶法師の物語を聞こうと言うので、琵琶を取り寄せたところが、柱がひとつ落ちていたので、『作って着けろ。』と言うと、その場にいた男の中で、見た目の悪くないと見えた男が、『古い柄杓の柄があるか。』など言うのを見ると、爪を長く伸ばしている。琵琶など彈くのだろうが、めくら法師の琵琶は、そういう処置をするまでもないことである。その道に心得があることを見せつけようとしたのであろうかと、聞いていていたたまれなかった。『柄杓の柄は檜物木とか言って、琵琶の柱としてはよくないものなのに。』と、ある人がおっしゃった。若き人は、少しの事でも、よく見えたり、悪く見えたりすのものだ。」

若者の半可通を戒めている。若者は無闇に自分の才能や知識を見せびらかせない方がいい。時に、少しでもましなことを行ったりしたりすると、それだけで褒められることがある。しかし、それは心からの感動・評価ではない。奥に侮りや見下しの思いが隠されている。浅薄さを露わにして、かえって恥をかくことになる。実力が露わにならないように、無智無能を装っているに限る。
確かに恥をかけば、嫌な思いをする。恥はかかないに越したことがない。だから、今の若者は兼好が言うとおり実行している。万事に控えめである。これが兼好の影響力だとしたら大したものだ。しかし、この戒めは効き過ぎているのではないか。誰もが「臆病な寡黙さ」を身に付け、自己主張を控えている。むしろ、恥知らずの向こう見ずがもっといてもいい。外聞だけを気にしてどうするのか。恥が人を成長させることもある。

コメント

  1. すいわ より:

    無知無能を装う必要は無いと思います。無知である事を知った上で知る努力をしたい。知っているふりは知る機会を失うし、付け焼き刃の浅い知識を披瀝したところで薄いメッキはすぐ剥げるし、本当に知識として活用できるかというと駆使しきれないと思います。
    知識の「点」をいかに自分の中で線で繋げるか。ネットワーク化する事で相乗倍の力を発揮出来る「知」を点のまま集めるだけ集めて使っていない子が現代は多いような気がします。学力(学歴?)偏重のもたらした結果なのでしょうけれど、持っているのに使えない、使えないという事は自分のものになっていない、その自信の無さが「臆病な寡黙さ」に繋がっているのだとすれば大人の罪は重いですね。
    「知」のはなしをしましたが、これ、「人」に置き換えても考えられますね。何だかそら恐ろしい。
    兼好は自分の賢さに対して謙虚であれ、との考えでこう書いたのでしょう。でも、先生の仰るように、現代の日本人の主張の無さは謙虚というより卑屈、責任を負いたくないだけの逃げのように思います。
    「父親の前で」という所まで見た時に、最近の子供たちが親の前では良い子、他人に対しては横柄な態度を取るという傾向の事も思い起こしてしまいました。

    • 山川 信一 より:

      現代の若者(だけではありませんが)は、形だけ兼好の言うとおりになっています。すいわさんがおっしゃるように「謙虚というより卑屈、責任を負いたくないだけの逃げ」の姿勢を身に付けています。学校という場は、それに拍車を掛けています。兼好がこう言わざるを得なかった当時は、半可通で向こう見ずの目立ちたがり屋がいっぱいいたのでしょう。しかし、それでも当時の方がましだったかも知れませんね。「能ある鷹は爪を隠す」的な処世術に長けた人間ばかりでは、かえって世の中は進歩しません。

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