《秋の草の色》

題しらす よみ人しらす

みとりなるひとつくさとそはるはみしあきはいろいろのはなにそありける (245)

緑なる一つ草とぞ春は見し秋はいろいろの花にぞありける

「どの草も緑の同じ草だと春は見た。けれど、秋は様々な花であることだなあ。」

「緑なる」の「なる」は断定の助動詞「なり」の連体形。「草とぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「見し」の「し」は、経験・過去の助動詞「き」の連体形。ここで切れる。「ありける」の「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。ある事実に気が付いて詠嘆する意を表す。
春には、どの草も緑一色で区別が付かなかった。しかし、草が緑一色なのは春だけで、秋には、それが紅葉して様々な色に変わる。それはまるでいろいろな色の花が咲いているように思える。秋は、緑一辺倒の草が様々な色をした花に変わる季節だったのだ。今更ながらそのことに気が付き、驚いている。
春と秋を比べている。『万葉集』の昔から春と秋の優劣を競う論争があった。しかし、勝敗は決まらない。春秋それぞれによさがあり、結局、好みの問題で、額田王も自分は秋が好きだと言うだけであった。そこで、作者は、草の色に関しては、秋の方がずっと色が多様で楽しめると、さりげなく秋に軍配を上げている。

コメント

  1. すいわ より:

    春は花咲くイメージが強いので華やかなイメージがありますが、なるほど葉の色に着目すると秋の方が多彩ですね。この歌を読んで「花」が中国語だと「斑」「色々」の意味があるのを思い出しました。「花猫」??これ、三毛猫と知った時、驚きましたが模様が散っている様が色とりどり紅葉して行く木々の葉と重なりました。

    • 山川 信一 より:

      九世紀の唐の詩人、杜牧はの「山行」という詩夕暮れの紅葉を、「霜葉は二月の花より紅なり」と詠んでいます。これは花と葉を比べたものですが、この歌は春秋の葉そのものを比べています。そこにオリジナリティが感じられます。

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