第二百三十段  狐の文化的価値

 五条内裏には、妖物(ばけもの)ありけり。藤大納言殿語られ侍りしは、殿上人ども黒戸にて碁をうちけるに、御簾をかかげて見るものあり。「誰そ」と見向きたければ、狐、人のやうについ居てさし覗きたるを、「あれ狐よ」ととよまれて、惑ひ逃げにけり。未練の狐、化け損じけるにこそ。

「五条の内裏には、化け物が住んでいた。藤大納言殿がお話になりましたことは、(次の通りです。)殿上人たちが黒戸にて碁を打っていた時に、御簾を持ち上げて見る者がいる。『誰だ。』と振り向いて見ると、狐が、人のようにかしこまって座ってのぞき込んでいるのを、『あれっ、狐だ。』と大声を上げて騒がれて、慌てて逃げてしまった。未熟な狐が化け損ねたのであろう。」

第二百十八段に続いて、狐の話である。そこでは、狐は食いつくことについて言っていた。ここでは、化かすことについて言う。いずれも、狐には、注意が必要だと言うのだ。狐狸妖怪という言葉があるけれど、一般に、狐と狸とでは、扱い方がやや違う。狐の方が狸より神秘性があり、時に神にもなる。狐は狸より格上の扱いだ。兼好もそんな狐の文化的価値を認めている。物事は合理的すぎると、味気なくなる。狐のような化け物がいても、大した害は無いし、かえって面白いと言いたいのだろう。
「き」と「けり」が使い分けられている。「藤大納言殿語られ侍りしは」とあるから、この話は、兼好が藤大納言殿から直接聞いたことになる。藤大納言殿の話の内容には、「けり」が使われているから、藤大納言殿にとっても伝聞だったことがわかる。
構成としては、話題にバリエーションを持たせることで、読み手を飽きさせないようにしている。こうして、随筆というジャンルの特性を生かしている。

コメント

  1. すいわ より:

    「狐が屋敷に入ってきた」ことがこんな「おはなし」になるほどに心理的にも近い存在だったのだなぁと思いました。そうでなければエピソードは生まれない。現実的に人里に降りて来て人の生活圏から餌を得ることを覚えた狐を「取り去って行くもの」と捉えれば悪者になるし、その俊敏さ、賢さを「異能」と捉えれば良いものとして神格化する。どちらも人の都合な訳ですが、自然と折り合いをつけて一定の距離で関わりを持って生きていた昔の人の方が賢いのかもしれないと思いました。

    • 山川 信一 より:

      現代は、折り合いを付けるのではなく、その自然そのものを遠ざけてしまいました。狐は、今では山奥にしか生息していません。ところが、狸は都会にもいます。『平成狸合戦ぽんぽこ
      』というアニメもあります。自然と折り合いを付けたい思いは残っているようです。

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