第二百二十七段  仏教音楽の起源

 六時礼賛は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて造りて、勤めにしけり。その後、太秦の善観房といふ僧、節博士を定めて、声明になせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讃も、同じく善観房始めたるなり。

六時礼賛:晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の昼夜六時に阿弥陀仏を礼賛するのに用いる詩句。
節博士:声明の音符。「博士」は、節を表す記号のこと。
声明:一定の節を付けて歌う仏教を讃美する歌。
一念の念仏:一心に一度南無阿弥陀仏を唱えれば往生できるという説。
法事讃:浄土宗の仏・菩薩の徳をたたえる言葉。

「六時礼賛は、法然上人の弟子の安楽と言った僧が経文の中から適当な句を集めて作って、勤行に用いた。その後、太秦の善観房といふ僧が音符を定めて、声明に作った。これが一念の念仏の最初である。後嵯峨院の御代から始まった。法事讃も、同じく善観房が始めたのである。」

当時の仏教音楽の起源を語る。ただし、この考証は間違っていると言われている。こうした考証が、個人のレベルでは、難しいことがうかがわれる。
さて、それはそれとして、兼好は、物事をことの起こりから捉えることが好きらしい。一種の原理主義である。しかし、原理主義が危険であることは、多くの事例により明らかである。時には原点に立ち帰ることも必要ではあるけれど、常にそこに立ち帰りそれに従うものではない。初めが常に正しい訳ではないからである。

コメント

  1. すいわ より:

    私も言葉のルートを辿るのは好きな方ですが、大元が一番というのではなく、分かれて行った経緯、分けることでどう変わって行くのかという事に興味があります。「必要」から派生して行く事を考えれば、それは人の知恵であり、そこに尊さを感じるのです。伝統を重んじる事も大切ですが、その時、その場合に合った形に変えて行く事も重要。盲信的に「始まり」にこだわって思考停止させるのは如何なものかと思います。

    • 山川 信一 より:

      同感です。起源は興味深いですが、それに固執すべきではありませんね。物事は必要に応じて変化します。ならば、その変化の仕方がよいものかどうかを問えばいい。そして、望ましい方向の進んでいる時には、起源立ち返ればいい。しかし、固執しすぎるものではありませんね。

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