第二百十四段  恣意的な当て字

 想夫恋(そふれん)といふ楽は、女、男を恋ふる故の名にはあらず。本は相府蓮、文字の通へるなり。晋の王倹、大臣として、家に蓮を植ゑて愛せし時の楽なり。これより大臣を蓮府といふ。廻忽(かいこつ)も廻鶻なり。廻鶻国とて、夷の、こはき国あり。その夷、漢に伏して後に来りて、おのれが国の楽を奏せしなり。

「想夫恋と言う曲は、女が男を慕う情を表す故についた名ではない。もとは相府蓮で、文字の音が似通っているのである。晋の王倹が大臣として、家に蓮を植えて愛した時の曲である。これ以来、大臣のことをを蓮府と言う。廻忽も廻鶻である。廻鶻国と言って、野蛮人の強国がある。その野蛮国が漢に帰服してから後にやって来て、その国の曲を演奏したのだ。」

例によって蘊蓄を傾けている。日本語は、音韻が少ないので、元々同音異義語が多い。それに対して、中国語は日本語より圧倒的に音韻が多い。そのため、漢語によって、同音異義語が爆発的に増えてしまった。中国語では区別された音韻が日本語では同音になってしまうからだ。そこで、恣意的に元の漢字が別の漢字に替えられることがある。
曲名であるから、「そうふれん」には、「想夫恋」を当てたくなったのだろう。確かに、「想夫恋」の方が情緒がある。「相府蓮」では、味気ない。「廻忽」と「廻鶻」にしても、「心」の方が「骨」や「鳥」よりも、音楽には似つかわしい気がする。しかし、故事来歴を尊ぶ兼好としては、勝手な俗解が許せなかったのだろう。そこで、その由緒を正しているのである。

コメント

  1. すいわ より:

    兼好の、兼好らしさが伺える段ですね。でも、同じ事を伝えるにも言い方の違いでその事実を受け取りやすくしたり、受け取り難くしたりします。折角の知識も知ったかぶりで鼻がつく、と捉えられたらたとえそれが正しい事でも相手に届かない。
    言葉のルートを辿るのは楽しいです。でも今回、日本語の特性が兼好の不興を買っています。和歌の世界の豊かさはこの特性があればこそと思うと、兼好の言い分にうんうんと首肯しつつ、この厄介な言語を私は楽しみたいです。

    • 山川 信一 より:

      本当の由来とは、違っているのに、今ではそれらしく感じられる語があります。「想夫恋」なども、それでしょう。「相府蓮」よりずっと情緒があります。そう思って聞いていると、段々そんな気がしてくるのでしょう。
      同じような間違いに紫陽花があります。中国では別の花の名だったそうです。それが今では、これ以外に考えられないほどぴったり合っている気がします。

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