《蜘蛛の糸という脇役》

是貞のみこの家の歌合によめる 文屋あさやす

あきののにおくしらつゆはたまなれやつらぬきかくるくものいとすち (225)

秋の野に置く白露は玉なれや貫き抜き掛くる蜘蛛の糸筋

「是貞親王の家の歌合で詠んだ  文屋朝康
秋の野に置く白露は真珠だなあ。それを貫き抜き通して掛けている蜘蛛の糸筋。」

「なれや」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「や」は、詠嘆の終助詞。ここで切れる。以下との繋がりは、読み手の想像力に任される。あるいは、「や」を係助詞・疑問として、「なればや」の意と見る。その場合は、以下との意味上の繋がりが強調され、以下はその理由になる。
秋の野に置く露は、真珠のように見える。なんと美しいことか。露を真珠と見せているのがそれを貫いている蜘蛛の細い糸なのだ。
蜘蛛の糸に掛かる露の美しさを詠む。蜘蛛の糸は、萩の枝よりもずっと細い。そのため、いっそう露が真珠のように美しく見える。蜘蛛の糸こそが露をより美しく見せるのだと言う。ここにこの歌の発見がある。主役の美しさの発見は、美しく見せている脇役の発見でもある。「蜘蛛の糸筋」で終わったのはそのためである。
現代人でも、蜘蛛の糸に掛かった露が美しく感じられる。すると、何だかこの歌の感動が陳腐にも思えてくる。しかし、そう思わせるのは、この歌があるからなのだ。この歌が文化的伝統となり、日本人の感性を普遍的なものに育て上げてきたのだ。それは、たとえば、秋の虫の音に侘しさを感じるのも同様である。歌は、普遍性の発見である。

コメント

  1. すいわ より:

    蜘蛛の糸に関して少し違った見方をしました。人の手ではどうにも貫き留めることの出来ない白玉を、ほんの小さな存在が見事に編み、模様を描き、より一層美しさを引き出して見せている。その蜘蛛の糸、露を纏わなければ、その存在に気付かなかったかもしれない。全く違うもの同士が出会うことで生まれた美への感動。
    蜘蛛の巣に掛かった露を美しいと思う気持ちの形が一千年を越えて届いていると思うと何とも感動的です。昨日の兼好の二百十一段のコメントではないけれど、現代の私たちは次へとそれを受け継ぐ事が出来ているのだろうか、と考えさせられました。人間の領域と自然とがあまりに乖離してしまって、ほんの小さな子供ですら動植物を嫌う傾向が見られます。ヒトは文明の名の下に生き物の頂点に立ったような錯覚をしたまま胡座をかきすぎましたね。

    • 山川 信一 より:

      なるほど「全く違うもの同士が出会うことで生まれた美への感動」という捉え方は、面白いです。これはこの歌の鑑賞を超えて創作の域に入っています。作品鑑賞とはそういうものです。よい鑑賞をされています。
      ただ、この歌が伝えようとしているのは、「露を纏わなければ、その存在に気付かなかったかもしれない」蜘蛛の糸の魅力です。だから、「蜘蛛の糸」で終わらせたのです。まずは、表現いどこまでも則して捉えることが必要です。これが解釈です。鑑賞・創作はその上に為されます。
      「自然は芸術を模倣する。」という言葉があります。人間が自然から離れるのは、芸術を忘れるからです。現代は人文教育が軽んじられています。

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