第二百七段  迷信を超える理屈

 亀山殿建てられんとて、地を引かれけるに、大きなる蛇、数も知らず凝り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」といひて、ことのよしを申しければ、「いかがあるべき」と勅問ありけるに、「古くよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられがたし」と皆人申されけるに、この大臣一人、「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何のたたりをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎むべからず。ただ皆掘り捨つべし」と申されたりければ、塚をくづして、蛇をば大井河に流してげり。さらにたたりなかりけり。

亀山殿:後嵯峨院の離宮。
この大臣:前の段に出て来た太政大臣。(徳大寺実基)

「亀山の離宮をお建てになろうとして、敷地をならしたところ、大きな蛇が数え切れないほどかたまり集まっている塚があった。『蛇はこの土地の神である。』と言って、ことの次第を院に申し上げたので、『どうしたものか。』と院からのご下問があったところ、『古くからこの地を占有している物ならば、無造作に掘り捨てることは難しい。』と皆口を揃えて申し上げなさったところ、この大臣一人が『天子のご領内に住んでいる虫が、天子が皇居をお建てになる折に、どんな祟りをするだろうか、そんなはずがない。鬼神は曲がったことを行わない。蛇のことを気に掛けてはならない。さっさと全部掘り出して捨ててしまいなさい。』と言っていらっしゃいましたので、塚を崩して、蛇ば大井川に流してしまった。いっこうに祟りはなかった。」

前段同様、徳大寺実基が迷信に囚われなかったというエピソードを紹介している。兼好の思いや評価は書かれていないけれど、その態度に共感し、高く評価していることは明らかである。兼好は次のように言いたいのだろう。
人は、時に迷信に囚われる。しかし、よくよく考えてみると、それは、自己の判断の放棄、責任転嫁であることが多い。自分が責任を取りたくないので、迷信のせいにしようとするのである。だから、ここに迷信に代わる都合のいい理屈があれば、それに従うことになる。その理屈を言える人物は有り難い。人々はそういう権威を求めている。だから、そういう人物が権力者になるのだ。
迷信に囚われて自己の判断ができない小人と、迷信を超える理屈を言える大人物の対比である。我々も迷信に囚われる場合や縁起を担ぎたくなる場合に、一歩踏み込んでその理由を考えてみるべきだろう。隠れた真の理由に気づくこともある。物事は、それを以て判断すべきだ。理屈はいかようにも付けられるのだから。

コメント

  1. すいわ より:

    蛇、川に流されて可哀想ですね。強いて言うなら、塚は蛇がたむろしやすい湿地だったのだろうなぁ、と。そういう意味では屋敷を建てる場所として向いていないかもしれない。何事も無くてよかったけれど。
    人は物理的ダメージよりも心理的ダメージの方が大きい場合がありますね。それを暗示によって逸らす事でダメージの軽減を図ったりします。「いたいの、いたいのの、お空へ飛んでいけ」なんていうおまじないがそれに当たりますが、怪我が治る訳ではないけれど、小さな子供の気を紛らわせるには有効。でも、そうした心理を悪用する人もいます。カルト集団の手口がそれで現代の「迷信」。「隠れた真の理由に気づくこと」、今も試されていますね。

    • 山川 信一 より:

      まさに「水に流す」ですね。ただ、蛇は泳げますから、きっとどこかに流れ着いたことでしょう。しぶとく生き続けるのでは?
      人は、精神的にも弱いもの。悪人はそこに付け込みます。付け込まれないように、理性を鍛えたいですね。

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