第二百五段  起請文の是非

 比叡山に、大師勧請の起請といふ事は、慈恵僧正書き始め給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。いにしへの聖代、すべて起請文につきておこなはるる政はなきを、近代、この事流布したるなり。又、法令には、水火に穢れをたてず。入物には穢れあるべし。

大師:伝教大師、最澄。
勧請:神仏の来臨を請うこと。
起請:神仏に誓いを立てること。
慈恵僧正:天台座主。

「比叡山延暦寺において、大師勧請の起請と言うことは、慈恵僧正が書き始めなさったことである。起請文ということは、法律家においては何の問題にもなっていない。昔の聖天子の時代には、まったく起請文に基づいて行われる政治はないのだが、近い代に、この事が世に広まって行われているのである。また、法令においては、水と火には穢れをもうけていない。それを容れる物には穢れがあるはずだ。」

起請文について次のように言う。その起源は、慈恵僧正にある。近頃世に流布しているけれど、昔は行われていなかった。一応、法律上は問題無い。そして、最後に、火と水自体には穢れが無く、器には穢れがあり得ると付け加える。
要領を得ない文章である。書いてある語句の意味は一応わかるけれど、表現意図が判然としない。しかし、敢えて言うのなら、こうだろうか。「起請」は、火と水にあたり、「起請文」はその器にあたる。「起請」自体には問題が無くても、「起請文」を政治的に利用されると、問題が生じることがある。しかし、この文章を読み解くコンテクストが足りないので、よくわからない。いずれにしても、兼好が古を尊び、流行りのものを嫌うことは確かだ。

コメント

  1. すいわ より:

    よく分からない、何を訴えんとしているのだろう?と言うのが初読の感想です。解説を読んでなるほどと思いました。
    「型」が必要なこともありますが、それに頼り切って思考停止し、中身の充実に努めなくなったら本末転倒ですね。ひたすらに仏道に精進するのと、決められた分を熟せばいいのね?という態度では雲泥の差が生じます。
    明文化するということは、それに則って物事を判断、進めるということだから、効率化出来る一方で「型」の中身が疎かになりかねないリスクもあるのですね。
    逆に「型」を逆手に取って法律の「解釈」みたいに本来の意味からかけ離れた判断に持っていくということも可能になったりもします。考えさせられました。

    • 山川 信一 より:

      兼好が具体的に何に対して言っているのかはわかりませんが、限定がないので、かえっていろいろと考えさせますね。「型」に怖さがありますね。

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