第二百四段  鞭打ちの作法

 犯人(ぼんにん)を笞(しもと)にて打つ時は、拷器に寄せて結ひつくるなり。拷器の様も、寄する作法も、今はわきまへ知れる人なしとぞ。

拷器:拷問に用いる道具。

「罪人を鞭で打つ時は、拷器に罪人を引き寄せて、それに縛り付けるのである。拷器の形も、引き寄せるやり方も、今は心得ている人はないということだ。」

話題が鞭打ちになるのは、前段からの連想だろう。昔は、罪人を鞭で打つ仕方も決まっていた。それが今は忘れられている。兼好は、これを良いことだとは思っていないようだ。しかし、その理由は書かれていないので、次のように考えてみた。
たとえ、罪人であっても、人が人を罰することには、抵抗がある。それは、人には、その資格があるかという疑問があるからだ。また、そこには個人の感情が入り込む危険性もある。そこで、それらを排除する方法が要る。それが決められた作法に従うことである。つまり、人が人を罰するのではなく、人が法に従う型を作るのである。作法は、恣意的な罰を避けるための知恵である。しかし、今はその知恵を忘れている。愚かなことである。作法には、それをするだけの理由がある。いい加減に考えてはいけない。

コメント

  1. すいわ より:

    忌事に続いて刑罰の与え方。避けて通りたい事だからこそ「型」を与えることで速やか且つ公平に事を進めるのが作法だ、と。それが廃れると言うことは世が乱れていることの象徴とも言えたのかもしれません。疫病に罹ったことを周囲に知られたくないとか、私怨による私刑を行うとか。判断するのが人である以上、その判断にブレも生じる。誤りを無くすための「作法」、蔑ろにはできません。

    • 山川 信一 より:

      兼好は世の乱れを問題にしているのでしょう。型は、物事を形骸化する危険がある反面、恣意性を避ける働きもありますね。けれど、その兼ね合いが難しい。

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