第二百三段  靫の作法

 勅勘の所に靫(ゆぎ)かくる作法、今はたえて知れる人なし。主上の御悩(ごなう)、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫をかけらる。鞍馬にゆぎの明神といふも、靫かけられたりける神なり。看督長(かどのおさ)の負ひたる靫を、その家にかけられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封を付くることになりにけり。

勅勘:天皇のとがめ。勅命によって勘当されること。
靫:矢を入れて背に負う道具。
主上:天皇。
看督長:検非違使庁に属し、牢獄管理、罪人追放、罪人追補に当たる役人。

「勅勘の所に靫を掛ける作法は、今はまったく知っている人がいない。天皇のご病気、一般に、世中が疫病などで不穏な時は、五条の天神に靫をお掛けになる。鞍馬寺にゆぎの明神と言うものがあり、それも、天皇が靫をお掛けになっていた神である。看督長が背負っている靫を、勅勘の家に掛けられてしまうと、人はその家に出入りしない。この事が絶えてから、現在では、入口に封を付けることになってしまった。」

靫の作法について言う。昔は、靫によって、不祥事やご不幸などを知らせた。しかし、現在では、その作法が忘れられ、実質本意に簡素化されてしまった。兼好は、それを奥ゆかしさが失われ、味気なくなってしまったと嘆いている。兼好の懐古趣味の表れであるけれど、共感できる。作法は、事態を受け入れるための時間を作り出すからである。人は作法によって、納得することができる。一概に簡素化すればいいと言うものではない。人の心を忘れているからである。

コメント

  1. すいわ より:

    「けの日、はれの日」なんていいますね。日常と非日常。非日常の特に忌事、日常が枯れた「ケガレ」においては人の心理が通常のように機能しなくなる事を考えると、「型」「作法」がある事で暮らしを回していけるのかもしれません。無闇に「伝統だから」と踏襲していけば良いと言うものではないけれど(特にお祭り〈騒ぎ〉は祭りに乗じて過剰に振る舞いがち)、今ここに実態のない人、見えないからこそ、先祖子孫、縁で結ばれた者を意識する行事は疎かにしたくないものですが。「け」と「はれ」のバランスが現代は崩れて来ているように思います。

    • 山川 信一 より:

      「けがれ」の語源は、そんな風にも捉えられますね。ただ、言葉というのは、使う人がその言葉の意味をどう考えているかで決まります。語源までさかのぼって言葉を使う人は希です。昔は、主に「死」と「血」に対して使われました。具体的には、喪服やお産や女性の生理が忌み避けられていました。

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