第二百二段  神無月の言われ

 十月を神無月と言ひて、神事にはばかるべきよしは、記したる物なし。もと文も見えず。但し、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。
 この月、万の神達、太神宮へ集り給ふなどいふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢にはことに祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸、その例も多し。但し、多くは不吉の例なり。

「十月を神無月と言って、神事に遠慮すべき理由は、記している書物が無い。典拠となる文句も見当たらない。但し、この月には、諸社の祭が無いために、この名があるのか。
 この月、すべての神達が伊勢の大神宮へお集りになるなどという説あるけれど典拠は無い。もしそういうことなら、伊勢大神宮では特に、十月を祭の月とすべきなのに、その例も無い。十月に、帝が諸社へ行幸なさった、その例も多い。但し、多くは行幸後に不吉なことがあった例である。」

十月を「神無月」と言うことについての考察である。ただし、なぜそう言うのかの結論は出ていない。典拠が無いからである。しかし、語源とは、そういうものだ。「神無月」という表記も、語源俗解の一つである。そこで、なぜそうなったのかを兼好に代わって考察してみる。
「かんなづき」は、元の意味は、「かみのつき」だろう。「な」と「の」は通い合う。「の」を使えば、上下は名詞として意識され、二語のままである。それが、「な」になると、一語化が進む。「かんなづき」は、もはや「神の月」ではない。そこには、一語と意識される理由が存在したはずだ。その理由が神の不在であった。陰暦では、十月は冬の始まりだ。それも有ってか、諸寺に祭礼が無かった。秋祭りが終わり、一息入れたのだろう。そこで、「な」に「無」が当てられた。よって、「神無月」が生まれた。ここからは、この言葉が逆に様々な俗信を生む。理由があれこれこじつけられる。だから、何となくそうなったのだから、典拠など有るはずもない。もっとも、これは「神無月」の表記の説明であって、なぜ十月を「神の月」と言うのかの説明にはなっていない。語源とは、そういうものである。

コメント

  1. すいわ より:

    言葉のルーツを辿る事、とても興味深いです。「水無月」→「水の月」と同じで「神の月」。人々は一年の収穫を終え、神にその実りを奉納(祭り)、それを納めた神が豊穣を総括する「神の月」。皆で持ち寄って分配し、、と言う人間の共同体と同じことを神の世界になぞらえるところが日本人らしい神仏に対する考え方。寄り合いにうちの神さん、送り出したから居ない(無)のだ、と。面白いです。

    • 山川 信一 より:

      何らかの意味で「神の月」なのでしょう。秋の収穫をもたらしてくれた神様が骨休みに温泉にでも行った月なのかも知れませんね。なるほど、面白いですね。

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