《侘しさの程》

これさたのみこの家の歌合のうた たたみね

やまさとはあきこそことにわひしけれしかのなくねにめをさましつつ  (214)

山里は秋こそ殊に侘しけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ

「是貞親王の家の歌合わせの歌  壬生忠岑
山里は秋が特に侘しいけれど、鹿の鳴く声に何度も目を覚ますことだなあ。」

この歌も、前の歌同様に「こそ・・・已然形」の係り結びが使われている。「侘しけれ」で一応切れつつ、下に逆接で繋がる。「覚ましつつ」の「つつ」は、接続助詞で、この文は文法上、倒置になっている。意味上は、「侘し」いことの理由を表す。いわゆる「つつ」止めと言われる技法で、詠嘆を表す。
人の住まない山奥の別荘は、秋が殊更侘しいことだが、これほどだとは思っていなかった。鹿が鳴く音に、眠れたと思うと目を覚まし、眠れたと思うと目を覚ますを一晩中繰り返す。このことでその侘しさを思い知ることになるとはなあ。
山里の侘しさがリアルに表現されている。鹿の鳴く音に何度も目を覚ましては、その度に、山里の人気の無い侘しさが身に染みてくると言うのだ。作者がなぜこの時期に山里に来たのかはわからない。それなりの事情があったのだろう。だから、来るからには、侘しさへ覚悟はしていたはずだ。しかし、実際の侘しさは、予想を遥かに超えていたのである。その驚きを詠んだ。「鹿の鳴く音」と「声」ではなく「音」を使ったのは、それに親しみが持てなかったからだ。むしろ、自分を不快にさせる原因であるのだ。鹿の鳴く音と共に作者の侘しさが胸に迫ってくる。作者の特殊な経験であるのに、巧みな表現により共感を誘う。

コメント

  1. すいわ より:

    なるほど、鹿の鳴く「声」でなく「音」。「声」であれば鹿の存在があり、ただ「音」とする事でその存在すら無くなってしまう。そら寒く人の気配も感じられない山里、一人寝の寂しさも相まって夜の闇に全て飲み込まれそうな恐ろしさもあるでしょう。外の闇を感じないよう目を閉じるも、鹿の「音」にハッと目覚めると、そこにあるのは闇。うつらうつらしては一度また一度、鹿の音に目覚めては自分の置かれた侘しさを思い知らされてしまう。一人鳴く鹿も淋しかろうとの共感より、たった一人泣いているのは鹿ではなく自分なのではないか?という錯覚を起こしそうな圧倒的な侘しい気持ち。ここにいるはずの読み手も共有してしまいます。

    • 山川 信一 より:

      夜の闇は、現代とは比べようのない恐怖をもたらしたことでしょう。山里にいれは尚更のこと。鹿の鳴き声に共感などできません。闇からの無気味な音に過ぎません。その侘しさが伝わって来ますね。

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