第百九十五段  久我内大臣の奇行

 或人久我縄手を通りけるに、小袖に大口着たる人、木造りの地蔵を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗いけり。心得難く見るほどに、狩衣の男二人三人出できて、「ここにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。尋常におはしましける時は、神妙にやん事なき人にておはしけり。

久我縄手:京都府伏見区にある久我を経て山崎に行く道。
小袖:装束の下着。
大口:大口袴。裾の口が大きい袴。束帯の時に、上の袴の下に履くもの。
久我内大臣殿:源通基。1308年没。六十九歳。

「ある人が久我縄手を通ったところ、小袖に大口袴をつけている人が木造りの地蔵を田の中の水にどっぷり浸して、丁寧に洗っていた。不思議に思って見るうちに、狩衣姿の男が二人三人出で来て、「ここにあそばされた。」と言って、この人を連れ去ってしまった。久我内大臣殿でいらっしゃいました。精神が普通でいらっしゃた時は、立派で尊い人でいらっしゃった。」

久我内大臣が晩年、精神に異常を来したという話である。偉い人の異常行動に周りの人がもてあましている様も描かれる。久我内大臣は、今で言う認知症になったのだろう。認知症は、身分や位に関係なく発症する。ただ、身分や位の高い人の方が、傍から見ると、その落差からいっそう哀れに思える。では、兼好はなぜこんな話を書いたのか。内大臣という職務の過酷さを訴えるためか、精神に異常を来しても来世への思いを忘れない健気な姿を描こうとしためか、人生の理不尽さを伝えたかったためか。その辺りは、読者の任せているようだ。

コメント

  1. すいわ より:

    時間の経過、生き物の終末は誰にも平等。生まれて生きて、そして必ず終わりはやって来る。人の場合、自死という形もあるけれど、生き物本来の終わりは自分で選べない。
    兼好は今回、ありのままの事実を書く事で、どんな人にも有無を言わさず平等に老いは訪れるという事、また、正気を失ったその様を周囲がどう受け止めるかの読み手の反応を見たかったのでしょうか。そして最後に残るその人の本質、久我内大臣にあってはどんなに仕事に打ち込み出世されても、彼の中に残る核は「信心」の心だった、と言いたかったのか?「幸福な王子」のみすぼらしく壊された像の、溶鉱炉に入れても溶けなかった「心臓」を思い出しました。

    • 山川 信一 より:

      ある事実を取り上げるからには、何らかの意図があるはずです。しかし、敢えてその意図を感じさせないことで、読者に想像の余地を与えることができます。この段は、その種の話なのでしょう。
      すいわさんの感想も自由に広がりました。「幸福な王子」の「心臓」にまで及んだのは見事です。共感しました。

タイトルとURLをコピーしました