第百九十二段  参詣は人気がない夜に

 神仏にも、人のまうでぬ日、夜まゐりたる、よし。

「神社仏閣にも、人が参詣しない日、しかも、その夜に参詣しているのがよい。」

人は神社仏閣へは、初詣やお盆など、誰もが行く祭日や縁日に参詣することが多い。しかし、それは真に信心からの行動であろうか。単なる年中行事にすぎないのではないか。また、周りにあまり人が多くては、心を落ち着けて、信仰心を抱くこともしにくい。よって、祭日や縁日は避けるべきである。しかも、夜であれば、周りの夾雑物も目に入りにくく、雑音も少なかろう。神や仏と心安らかに対面でき、厳粛な思いにひたれ、信仰心も深まるはずだ。兼好は、こう言いたいのだろう。一応、もっともな考えである。ただし、現実的には、夜は夜なりの問題が生じる。そこまでは考慮されていない。やや一面的で非現実的観念的な考えでもある。人がそうしないのには、それなりの理由があるのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    宗教人ではないので何とも言い難いのですが、そもそも信じる心がその人の中にあるのだから、あくまでも参詣は「型」であり、いつ行こうと問題はないのではないかと思います。
    お盆だからか、この段を読んで小泉八雲が盆踊りについて書いていた事を思い出しておりました(『日本の面影』?)
    ごく小さな地域の盆踊りに限らず、おわらの「風の盆」とか宵宮など、夜にそうした行事が行われる事、案外多いです。人が農耕蓄財するようになり太陽と共に生きるようになってから、夜の闇、死後といった異界との関わりを切り離す事なく「信仰」や「畏れ」と共に受け継いで来た、という事なのでしょうか。生命の記憶、DNAの螺旋が続いていくように切り離すことの出来ない原始の感覚なのかもしれません。闇が消えつつある当節、除夜の鐘然りで盆踊りも騒音クレームによって廃止されているようですが。人は滅びる方向へ進んでいるのかもとぼんやり考え続けております。

    • 山川 信一 より:

      人は集まりたくなるもの。それこそ本能的な行為である。夜は恐ろしいもの。だから、夜の行動は避ける。敢えて、その逆をすることにどれほどの意味があるのでしょうか。そんなケチの一つも付けたくなる段でした。
      「人は滅びる方向へ進んでいる」、そう思いたくはありませんが、そう思わずにいられない出来事ばかりです。戦争が終わらないこと、核兵器は決して無くならないこと、酸性になりつつある海・・・。
      人間は理性によっては生きていないようです。しかし、理性が当てにならないとすれば、何を当てにしたらいいのでしょうか?

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