第百八十九段  この世は不確かなもの

 今日は、その事をなさんと思へど、あらぬ急ぎ先づ出で来て、まぎれ暮し、待つ人は障り有りて、頼めぬ人は来り、頼みたる方の事は違ひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。わづらはしかりつる事はことなくて、やすかるべき事はいと心苦し。日々に過ぎ行くさま、かねて思ひつるには似ず。一年の中もかくの如し。一生の間も又しかなり。
 かねてのあらまし、皆違ひゆくかと思ふに、おのづから違はぬ事もあれば、いよいよ物は定めがたし。不定と心得ぬるのみ、実にて違はず。

「今日は、その事をしようと思うのに、予想外の急用がまず出て来て、そのことに紛れて日を送り、待つ人は差し障りが有って、当てにしない人が来て、頼みにしていた方面は期待外れで、思いもよらない方面ばかりが上手く行ってしまう。面倒に思っていたことはわけなく済んで、容易いはずのことはたいそう辛い。一日一日が過ぎ行く様子は、予め思ったことには似ていない。一年の中もこの通りである。一生の間もまた同様である。
 前々からの予想は、皆外れてゆくかと思っていると、自然に外れないこともあるので、ますます物事は決めるのが難しい。不確かだと心得えておくことだけが真実であって、外れない。」

物事は、予想通りに行かないことが多い。その対応に汲々として日を過ごし、一年を過ごし、一生を終える。しかし、すべてが予想外かと言えば、そうでもない。たまには、予想通りのこともある。そこで、この世のことは、万事当てにならないと心得ておけば、間違いないと言う。これは、前段の補足でもある。だから、法師は、この世のことを当てにせず、後世を頼んで、修行に励めと言うのだ。この話も、法師への戒めである。
この話は、それほど具体的ではないけれど、こう言われれば、いくらでも思い当たることがある。だから、各自がそれぞれの経験を思い浮かべ易いように、敢えて特殊な例を挙げなかったのだろう。
この話は、法師はこの世を当てにせず、後世のために励めという話だから、そのまま一般化はできない。しかし、参考になる点もある。物事を予定通りに行おうとし過ぎない方がいいという点だ。予定を組んでもいいけれど、その実行に神経をとがらすべきではない。予定は、生きる手掛かりの一つであって、絶対にその通りしなくてはならない義務ではないのだから。

コメント

  1. すいわ より:

    自然天然の中において人間の物差しなど高が知れているというもの。「予定」はあくまでも「予定」であって100%保証された計画などむしろ疑わしいものに思えます。
    法師に望まれる生き方は旅に例えると「修学旅行」なのではないかと思いました。計画通りに決まった時間に決まった場所へ行き、予定を「熟す」。修学旅行のそれは旅する事が目的の第一ではない。一般目線の「旅」とは全く異質なものですよね。
    予定を立てる大切さも勿論理解できます。何か事を起こすのに目安があると動きやすいです。でも、それに縛られては本末転倒。遊びのない服はピッタリかも知れないけれど窮屈で動きづらい。「遊び」って大切ですね。

    • 山川 信一 より:

      同感です。適切な例をありがとうございます。だから、私は修学旅行が嫌いでした。目的が予定を熟すのではつまりません。それは生徒も同様で、規則破りはそのためにするのでしょう。むしろ、健全な精神の表れかも知れません。

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