第百八十一段  童謡についての蘊蓄

「『ふれふれこゆき、たんばのこゆき』といふ事、米舂(よねつ)きふるひたるに似たれば、粉雪(こゆき)といふ。『たまれ粉雪』と言ふべきを、あやまりて、『たんばの』とは言ふなり。『垣や木の股に』と謡ふべし」と、ある物知り申しき。昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るに、かく仰せられけるよし、讃岐典侍が日記に書きたり。

鳥羽院:堀河院の第一皇子。
讃岐典侍:堀河院に仕えた女官。

「『ふれふれこゆき、たんばのこゆき』と言うことは、米をついて糠をふるっているのに似ているので、粉雪と言う。『溜んまれ粉雪』と言うはずのところを誤って、『丹波の』とは言うのだ。「続けて『垣や木の股に』と謡うはずだ。」と、ある物知りが言いました。昔から言ったことであろうか。鳥羽院がご幼少でいらっしゃって、雪が降る時に、このようにおっしゃったということを讃岐典侍が日記に書いている。

童謡の言葉について考証している。「こゆき」は、「粉雪」であって、「小雪」ではない。糠をふるうのに似ているからだ。「た(ン)まれ」は、「溜んまれ」であって、「丹波」ではない。「丹波」である必然性がないからだ。なるほど、納得の行く解釈である。現代でも、童謡の中には何気なく歌ってはいるけれど、意味のわからないものもある。それについて考証するのも悪くない。ここでは、さらに、ある物知りの話や讃岐典侍の日記の記述に言及している。自説に信憑性を加えるためだろう。なお、讃岐典侍の日記に触れたのは、前段と同様、宮中への関心からでもあろう。
話題に幅を持たせて、自らの関心の広さを示している。これは、一方、読者を飽きさせないための配慮でもある。この段の話題は、構成から言えば、箸休めと言ったところか。しかし、気ままを装って、周到に構成が考えられている。自己の主張を訴えるために、随筆という文芸形態を縦横に駆使している。

コメント

  1. すいわ より:

    小さな宮が雪の降るのを見て童歌についての学者の考証を振り返り疑問を投げかけた事を讃岐典侍が日記に書いている。
    閑話休題的に挟んだ小さなお話。随筆の全体を見て単調にならないようにこうした話を差し込んでリズムを作っているのですね。徒然を装って計算し尽くして書き上げているとは恐れ入るばかり。
    「『垣や木の股に』と謡ふべし」と物知りは言ったそうだけれど、童謡のこの部分はこの時点で欠落して歌い継がれていないのですよね?それに疑問を感じた小さな鳥羽院の話した事を讃岐典侍が日記に記したものを兼好が読んで、、。エピソードがドミノ倒しのように伝えられていますが、童謡は元々文字でなく聞き伝えで伝えられていくうちにどこかで変わってしまい、文字で残されたものは比較的詳細に伝わる様子を見たようで面白かったです。
    兼好的には雪を見て鳥羽院のエピソードを思い出し、「宮中オタク」ぶりを発揮したのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      「鳥羽院がご幼少でいらっしゃって、雪が降る時に、このようにおっしゃったということを讃岐典侍が日記に書いている。」の「このように」が指しているのは、この歌を歌ったことを示します。さすがに、幼少の鳥羽院にこの考証はできないでしょう。事実、『讃岐典侍日記』には、次のようにあります。「「降れ降れ粉雪」といはけなき御気配にて仰せらるる聞こゆる」と有ります。

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