《蟋蟀の鳴き声》

人のもとにまかれりける夜、きりきりすのなきけるをききてよめる  藤原忠房

きりきりすいたくななきそあきのよのなかきおもひはわれそまされる (196)

蟋蟀いたくな鳴きそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる

「人のもとに行った夜、蟋蟀が鳴くのを聞いて詠んだ  藤原忠房
蟋蟀よ、ひどく鳴くな。長い思いは私の方が勝っている。」

「きりぎりす」は、現在のコオロギを言う。「な鳴きそ」の「な」は呼応の副詞。「そ」は禁止を表す終助詞。ここで切れている。「秋の夜の」は「長き」に掛かる枕詞。「ぞ」は係助詞で強調。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「る」は存続の助動詞「り」の連体形。
蟋蟀よ、そんなにひどく鳴いてくれるな。あなたの思いに思えてならなくなるから。秋の夜のように長く尽きせぬ思いであれば、蟋蟀(あなた)より私の方がずっと勝っているのだ。そんなに鳴かれたら、私も堪えきれなくなるではないか。
詞書きからすると、蟋蟀は訪ねた家の主人を暗示していることがわかる。表面的には蟋蟀への注文になっているけれど、この家の主人への気持ちが込められている。
秋の夜の蟋蟀の鳴き声は、かなしみを誘う。この家の主人までがかなしみで泣いているように思えてくる。その理由は、会ったばかりなのに既に作者との別れを思うからだ。そして、それは作者のかなしみでもあった。
会うは別れの始まりである。秋の夜の蟋蟀の鳴き声は、折角の来訪にそんなセンチメンタルな思いを抱かせる。

コメント

  1. すいわ より:

    この家の主人は泣いているのだと思いました。久しく訪れることのなかった人が今宵我が家に。待ち望んだ逢瀬、でも、夜明けを待たずに貴方は帰ってしまう、、次にいらっしゃるのはいつだろう、、嬉しいのに悲しい。
    そんな様子を見て取り、集く虫の音に言寄せて男が歌を詠む。そんなに泣いてくれるな、秋の夜の長さに勝るほど、私の貴女への思いは強いのだから。
    歌に「きりぎりす」、よく登場します。漢字だと「蟋蟀」、これ私、「こおろぎ」って読んでしまう。鳴き声で言ったら、きりぎりすよりこおろぎの方が良い音なのだよなぁ、とずっと思っておりました。「こおろぎ」なのですね、納得。長年の疑問が解決しました。

    • 山川 信一 より:

      この歌の「人」は女性であり、「なく」に「鳴く」と「泣く」が掛けてあると考えるのが素直な読みでしょう。それでいいと思います。ただ、私の解釈では、「人」が男性であることも考慮しています。つまり、敢えて狭く限定しませんでした。解釈に幅を持たせてみました。
      当時、コオロギをキリギリスと言ったのは、キリギリスの方が五音なので、歌に収まりやすかったからでしょうか?

    • らん より:

      会うは別れの始まりですね。
      会えて嬉しいけれど別れが必ず来ると思うと寂しくなっちゃいます。
      興梠はこの家の方と一緒に「帰らないでいてほしい」と鳴いてるのかなあと思いました。
      訪問された方は「秋の夜長のように、たくさんいろいろなことを自分も考えているんだよ」と言っているのですか。
      なんだか切なくなりますね。

      • 山川 信一 より:

        気持ちのこもったいい鑑賞ですね。共感します。
        作者、訪ねた人、キリギリスが同じ立場にいて、競い合っているようです。
        そして、読み手も。

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