第百七十七段  故事に学べ

 鎌倉中書王にて、御毬ありけるに、雨降りて後、いまだ庭の乾かざりければ、いかがせんと沙汰ありけるに、佐々木隠岐入道、鋸の屑を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土のわづらひなかりけり。「とりためけん用意ありがたし」と、人感じあへりけり。
 この事をある者の語り出でたりしに、吉田の中納言の、「乾き砂子の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、はづかしかりき。いみじとおもひける鋸の屑、賤しく、異様の事なり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子を設くるは、故実なりとぞ。

鎌倉の中書王:中書は中務の唐名。中書王は中務の邸。

「鎌倉の中務のお屋敷で、御蹴鞠があった時に、雨が降ってその後、まだ庭が乾いていなかったので、どうしようかと相談あったところ、佐々木の隠岐の入道がおがくずを車に積んで、沢山差し出したので、庭一面にお敷きになって、ぬかるみの面倒が無かった。「こういう時のために取り溜めておいたのだろう、その用意は希有のことだ。」と、人々が感心し合った。
 この昔の事をある者が語り出したところ、吉田の中納言が「乾いた砂の用意は無かったのか。」とおっしゃっていたので、私は恥ずかしかった。当時素晴らしいと思ったおがくずは、下品で、変なことである。蹴鞠をする庭のことを職として執り行う人が乾いた砂を準備するのは昔からのしきたりであるということだ。」

 話の途中から「けり」が「き」に変わっている。前半は昔話で、後半は兼好自身の経験が書かれていることがわかる。なるほど、雨後のぬかるみを直すためには、おがくずよりも乾いた砂の方がいい。むしろ、その準備を怠りおがくずで済ませようとする方が問題である。物事に感心する前にもう一歩踏み込んでみることが肝要だ。そうでないと、本質を見誤ることになりかねない。もっともな指摘である。「はづかしかりき」とあるのは、兼好自身が一度は感心してしまったことを反省しているからだろう。
 しかし、そもそもなぜそう間違いが起きるのだろう。それは、故事に答えを求めないからである。今人が経験していることは、大抵既に経験済みのことが多い。それへの対処の仕方もわかっていて、故事という形に整えられている。常に故事に則って準備すべきである。それなのに、それを調べることなく、我流で準備するなどもっての外である。物事をその都度一から考えて対処するのでは、過去の経験が生かされない。津波への対処の仕方など、そのいい例である。

コメント

  1. すいわ より:

    今朝、ニュースで四年前の西日本豪雨について特集されていました。伝承の「伝」は記憶に新しい時にその努力はされている、でも、喉元過ぎれば「承」受け継ぐ事が疎かになっていく、だから常に意識して次へ伝えていかなくてはならない、と。
    佐々木隠岐入道の機転に感嘆したものの、実はそれが小手先のことで、本来の備えを怠っていたことに気付かされる。確かに蹴鞠という遊びだったから良かったものの、もしこれが火事だったらと思うと備えのない事は命取りに繋がります。
    故実大事の例として、兼好、身を切ってのエピソードなのでしょうけれど、学びを得ました。

    • 山川 信一 より:

      兼好が故事にこだわるのを懐古趣味とばかり思ってきましたが、実質的な意味もあったのですね。一概に退けることができません。また、「ちょっと待てよ。」と物事を冷静に判断することも大切ですね。

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