《秋の夜更け》

題しらす よみ人しらす

さよなかとよはふけぬらしかりかねのきこゆるそらにつきわたるみゆ (192)

さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空に月渡る見ゆ

「もう真夜中になって夜はすっかり更けてしまったらしい。雁の鳴き声が聞こえる空に月が渡るのが見える。」

「さ夜中と」の「さ夜中」は歌語。「と」は格助詞で「そういう状態で」の意。「更けぬらし」の「ぬ」は自然的完了の助動詞の終止形。「らし」は根拠のある推定の助動詞の終止形。ここで切れている。以下が推定の根拠になっている。
雁の鳴き声が聞こえて、空を見上げた。すると、既に雁の姿はなく、空には月が見えるばかりである。月は随分高い位置にある。いつの間にか夜はすっかり更けて真夜中になってしまったらしい。秋の夜は長いと言うけれど、よい時は時間の経つのが早いものだ。
まず、推定による判断を述べる。次に、聞こえるという作用と家の中から外へと目を転じる動作が加わり、最後に、空と月の様子を捉える。この判断と根拠となる心理の流れを倒置することで、印象づけている。前の歌に雁の鳴き声を加え、いっそう秋という季節の広がりを感じさせる。
この歌は『万葉集』巻九の1701の歌とほぼ同じである。「空ゆ」が「空に」になっているだけである。しかし、仮名序には、『万葉集』に入らない歌を載せたとある。したがって、両者を同じ歌だと認めていないことになる。なぜか?元歌の「ゆ」は移動する動作の経過する所を示している。言わば、「を」の意である。「月渡る」であるからその方がふさわしいようにも思える。しかし、それではしばらくの間月を眺めていたことになる。しかし、感動の中心は「夜は更けぬらし」にある。ならば、ここは、月を見た瞬間に時間の経過を受け取らないと、不自然である。月は既に予想していたところから移動して別の所にあったのである。したがって、ここは動きを感じさせず、その位置を表す「に」の方がふさわしい。貫之は、たった一字ではあるけれど、この改作を重んじ、別歌と判断したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「きこゆるそら“に”」「きこゆるそら“を”」、これ、全く別物ですね。
    雁の声、「音」に導かれて見上げた空に見つけたのは秋の月。「おや、もう月があんな所に。いつの間に夜更けた事だなぁ」
    「に」にする事で、この見上げて気付いた瞬間を表現出来ているのですよね。「を」だと月の移動する軌跡を眺めているだけの時間の経過を感じます。写真と動画くらいの違いが一音で生まれるのですね。これは別の歌、と捉える事に納得が出来ます。

    • 山川 信一 より:

      貫之はこの歌を以て歌に於ける一字の重みを伝えたかったのでしょう。『万葉集』の見落としとする説には同意できません。

      • すいわ より:

        むしろこの一文字で試されたような気持ちです。
        「見落とし説」なんてあるのですね。入念に歌と歌の配置にまで気を配っている貫之がそんなミスをするとは思えません。違和感がある時は何か意図があってそうしていると考える方が貫之らしいです。

        古今和歌集編纂室
        「貫之殿、この歌、『きこゆるそら“に”』で宜しいのか?」
        「お気付きになられましたか。ふふ、“に”です。」
        「、、、!おぉ!これは“ゆ”でなく“に”ですな、なるほどなるほど」
        「幾人気付いてくれますかなぁ」
        なんて会話が聞こえて来そうです。
        貫之様、私は自ら気付く事出来ませんでした。今更ながら、凄い教材に臨んでいるのだと実感しました。

        • 山川 信一 より:

          「古今和歌集編纂室」でのやり取り、愉快です。こんなことがありそうですね。
          貫之は『土佐日記』で阿倍仲麻呂の歌を海の恐ろしさを出すために「天の原」から「蒼海原」に変えました。こう言うことをする人です。『古今和歌集』の詠み人知らずの歌には貫之の添削がかなり入っている気がします。

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