第百七十五段  酒の効用

 かくうとましと思ふものなれど、おのづから捨てがたき折もあるべし。月の夜、雪の朝、花の本にても、心長閑に物語りして盃出したる、万の興をそふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入りきて、とりおこなひたるも、心なぐさむ。なれなれしからぬあたりの御簾の中より御果物・御酒など、よきやうなる気はひしてさし出されたる、いとよし。冬、狭き所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。旅の仮屋、野山などにて、「御肴がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるもをかし。いたういたむ人の、強ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とりわきて、「今ひとつ、上少なし」など、のたまはせたるもうれし。近づきまほしき人の、上戸にてひしひしと馴れぬる、又うれし。さはいへど、上戸はをかしく、罪ゆるさるる者なり。酔ひ草臥れて朝寝したる所を、主の引き開けたるに、まどひて、ほれたる顔ながら、細き髻さし出し、物も着あへず抱き持ち、ひきしろひて逃ぐる、かいとり姿の後手、毛生ひたる細脛のほど、をかしく、つきづきし。

「酒はこのように疎ましいと思うものであるけれど、自然と捨て難い折もあるに違いない。月の夜、雪の朝、花の本でも、心のどかに物語りして盃を出しているのは、多くの面白みを添える仕業である。手持ち無沙汰な日、思いの外に友がやって来て、酒の席を催しているのも心が慰められる。それほど親しい間柄ではないお方の御簾の中から御果物・御酒など、いかにも上品らしい様子で、さし出されたのは大変いい。冬に狭い所で火で物を煮などして、心やすい者同士が差し向かいで、大いに飲んでいるのは、なんとも愉快である。旅の仮りのやどりや野山などで、『酒の肴に何かあったらなあ。』など言って、芝の上で飲んでいるのも快い。ひどく迷惑がる人が強いられて少し飲んでいるのも、たいそういい。身分の高い人が特に、『もういっぱい、盃の上が空いている。』など、おっしゃっているのも嬉しい。お近づきになりたいと思っている人が、酒飲みでそれがきっかけでぴったりと親密になってしまうのもまた嬉しい。そうは言うけれど、酒飲みは、おもしろいもので、罪が許されるものである。酔いくたびれて朝寝している所を、主人がふすまを引き開けたのに、驚きまごついて、寝ぼけている顔つきのままで、細いもとどりを突き出して、物も着ることもできず抱え持ち、引きずって逃げる、着物の裾をつまんだ後ろ姿、毛の生えている細いすねの様子がおかしく、その場に似つかわしい。」

ここでは、あれだけ否定した酒のよさを説く。その有様がありありと目に浮かんでくるように具体的に描写している。なるほど、物事には必ず反面がある。一面的に見るべきではない。酒も悪い面ばかりなら、疾うに無くなっているはずだ。しかし、そうなっていないのは、酒にも、生活に潤いを与え、人生を面白くするという捨て難い面があるからだ。したがって、酒は全否定できない。酒のよさがあることは確かだ。ならば、良し悪しを心得て、よさを生かし悪さを抑えればよいと言うことになる。もっともではあるけれど、それをコントロールできるのは理性だ。酒こそがこの理性を鈍らせることも忘れてはならない。理屈通りに行くとは限らない。しかも、酒に効用があるとしても、酒の害を打ち消すほどのものであろうか。両者のバランスが取れているかどうかは、かなり心もとない。兼好もそう考えているに違いない。読み手にもそう思わせるために、敢えてそのよさも付け加えているのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    前回の先生の予告通り、あれだけくたしておいての今回の酒についての語り様。悪者は酒ではなく、それを飲む人の側なのですよね。貴族や格の高い人たちは酒も雅やかに取り入れて場を引き立てるものにしている、という見方は偏っていますが、どうせ飲むならこのように、という兼好の思いと、節度を弁える事すら出来ない法師どもは酒を口にする暇があったら念仏の一つも唱えて精進しろ、と言いたいところなのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      酒は、それを生かせる者だけがたしなむもののようです。法師ならぬ教師の私も、近づかない方がよさそうです。

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