《物思いの季節》

これさたのみこの家の歌合のうた よみ人しらす

いつはとはときはわかねとあきのよそものおもふことのかきりなりける (189)

いつはとは時は分かねど秋の夜ぞ物思ふことの限りなりける

「いつはとは時は区別しないけれど、秋こそが物思うことの最たる時期であることだなあ。」

「ぞ」は、強調を表しつつ、係り結びとして働き、文末を連体形にしている。「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。それまで気が付かなかったことに改めて気づき驚く意を表す。
物思いすることに時の区別は無い。つまり、物思いする時、しない時の区別は無い。物思いは、いつだってしている。しかし、それでも秋こそが最も物思いする時期であることに気がついた。なぜなら、私はこんなに物思いに耽っているのだから。
「いつはとはときはわかねと」一読しただけでは、意味が取りかねる表現である。短い中に、「は」を三回繰り返している凝った表現になっている。「は」の含みを踏まえた意味内容は、最後まで読まないとわからない仕掛になっている。読み手を立ち止まらせ、意味内容を考えさせ、以下を読もうという気にさせている。また、その一連の心の働きによって内容への共感を生み出している。
秋は、悲しみを誘う季節である。その一方で、物思いの季節でもある。夏の暑さから解放されて、自分自身に思いが向くからだ。つまり、気を紛らすものが無くなるからである。秋は、人に気を紛らすことをさせない季節なのである。このように秋を特徴づけている。

コメント

  1. すいわ より:

    いつもカナ文字だけの所を見て、頭の中で漢字を当てはめてみます。あぁ、今日は合っていた、あら、違う意味だった、というように。「一読しただけでは、意味が取りかねる表現」、正に今回は「?」何回か読み返しました。詠み手の思い通り、策にはまりました。
    でも目で見て読んでみるのと、音にして耳から聞いた時とでは目で追うより耳から聞いた方が内容をとらえやすい事に気付きました。歌合の時は詠んだ歌を回し読みするのでしょうか?声に出して皆の前で披露するのでしょうか?歌集を読んでこの歌を味わったら、やはりぐるぐると思い巡らせ立ち止まっていたのではと、遥か彼方の人と同じ感覚を味わったであろう事に心楽しくなりました。
    時間の流れに切れ目など無いのに、歌の真ん中に置かれた「秋の夜」、ピンスポットで抜かれたように強く印象付けられました。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』の歌は、他の時代の歌集の歌とは違って、耳で聞くだけでなく、目で読むものでした。つまり、清濁を書き分けない仮名文字の特徴を生かしています。ですから、読み手は、歌を耳で聞きつつも、何度も何度も仮名文字を眺めて読み解いたはずです。言わば、歌の解釈は、詠み手と詠み手の知的ゲームでもありました。この歌はまさに古今時代の典型的な歌です。
      「秋の夜」がピンポイントで抜かれたという捉え方に共感します。「秋の夜」は特別です。秋とはそういう季節なのです。

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