《悲しき虫の音》

題しらす よみ人しらす

わかためにくるあきにしもあらなくにむしのねきけはまつそかなしき (186)

我がために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けばまづぞかなしき

「私のために殊更来る秋ではないのに、虫の音を聞くと、まず悲しくなることだ。」

「秋にしも」の「しも」は副助詞で強調を表す。「聞けば」の「ば」は接続助詞で、偶然的条件を表す。「(たまたま)・・・したところ」。「ぞ」は係助詞で強調を表し、係り結びとして働き、文末を連体形にしている。
秋は、殊更私だけを悲しくさせるために来る訳ではない。万人のためにやって来るのだ。そんなことはわかっている。けれども、虫の音が聞こえてくると、その音色にまづ悲しくなってきてしまう。他の人はそうではないだろう。やはり、私を悲しませるためにやって来るとしか思えない。
虫の音を登場させる。これによって、秋の深まりを示している。歌集としての季節もまた一歩進む。虫の音は、秋らしい特徴の一つである。その音色は快く、人の心を楽しませる。ところが、自分はそれを楽しむ以前に、聞くとまず悲しくなってしまうと言う。ここに作者は個性を打ち出している。「まつぞかなしき」の「まつ」には、愛しい人を〈待つ〉が掛かっている。これには、松虫からの連想が働いている。秋は、理由も無く悲しくなるけれど、愛しい人を待つことをいっそう悲しさせるのであると言うのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    暑さも盛りを過ぎて空気が入れ替わって来ると日の沈むのも早くなり、夕暮れ時、虫の音が聞こえ始めますね。そんな時の気分を率直に詠む。「まつそかなしき」、「待つ」の意味が先に思い浮かびましたが、「まず」悲しみを連想する、と。虫の音からマツムシ、待つ身の悲しさを連想するのが秋、なのですね。「あついうち」は待つ楽しみもあるけれど、熱も段々と冷めてくると待っている自分を客観視してしまう。そんな時に聞く虫の音、澄んだ音の冷たさが心に悲しさをもたらすのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      人は気を紛らわす物が無くなると、自分について考え出します。パスカルは『パンセ』でそれは人を不幸にすると言っています。自分を客観視してしまうからでしょうか。
      夏は暑さで気を紛らすことができました。しかし、それが無くなると、思考は自分自身に向かいます。そして、人間存在の悲しみに気づいてしまうのでしょう。

タイトルとURLをコピーしました