《秋の悲しみ》

題しらす よみ人しらす

おほかたのあきくるからにわかみこそかなしきものとおもひしりぬれ (185)

大方の秋来るからに我が身こそかなしきものと思ひ知りぬれ

「世間一般のものである秋が来ると直ぐに私自身こそ悲しいものなのだと思い知ってしまうのだが・・・。」

「からに」は接続助詞。活用語の連体形に付く。「・・・するだけでもう」の意。「こそ」は係助詞で強調を表す。係り結びとして働き、文末を已然形にし、以下に逆接で続ける。「ぬれ」は、自然的完了の助動詞「ぬ」の已然形。
特に自分一人の秋ではない、世間一般のものである秋がやってきた。すると、その途端に秋そのものが悲しいのではなく、自分自身が悲しいのだと思い知ってしまった。しかし、秋とはそういう季節なのだろうか。誰でもがそうなのだろうか。
秋の季節感を悲しみに焦点を当てて詠む。秋が来ると、誰でもが何とはなしに悲しい気分になる。思ってみれば不思議なことだ。しかし、事実として確かに、秋はもの悲しくなる季節である。では、その悲しみは何によるものなのだろうか。実は、秋という季節そのものが悲しいのではない。悲しみは人の身の中にあるのだ。その悲しみとは、生きることへの根源的な思いに違いない。秋はただそれに気づかせてくれるに過ぎない。秋とは、人が生きることの悲しみに気付き、それに浸る季節である。

コメント

  1. すいわ より:

    「大方の秋」「世間一般の人々にとっての秋」と取れば良いのでしょうか?
    「毎年巡り来るいつもと何ら変わらない秋」なのかと思いました。秋自体は変わらないはずなのに何か心寂しくなってくる。それは秋が悲しいのではなく、私の心にこそ悲しみがあるからなのだと気付いた、、厳しい夏を越えて七夕祭りに心が沸き立ち、秋の涼風が心に冷静をもたらす。沈静した心のスクリーンにこれまでの事、これからの事が映し出され物思いへと誘われるのでしょう。そんな季節なのですね。

    • 山川 信一 より:

      「大方の秋」とは「世間一般のものである秋」で、特殊ではなくて一般的な秋のことです。「毎年巡り来るいつもと何ら変わらない秋」と受け取って差し支えありません。
      そんな秋は、人を自分の心に向かわせるのでしょう。

  2. らん より:

    毎年巡り来る秋は、ほんとになんで寂しさを感じさせるのでしょうね。
    共感します。

    • 山川 信一 より:

      暑い時には暑さに気を取られていたのが自分を見つめる余裕が出て来るからでしょう。すると、必然的に悲しくなるのです。

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