《七夕の終わり》

なぬかの夜のあかつきによめる 源むねゆきの朝臣

いまはとてわかるるときはあまのかはわたらぬさきにそてそひちぬる (182)

今はとて別かるる時は天の河渡らぬ先に袖ぞ漬ちぬる

「七日の夜の暁に詠んだ  源宗于の朝臣
今はこれまでと別れる時は、天の河を渡らない前に袖が濡れてしまったことだなあ。」

「今はとて別かるる時は」の「は」は取り立ての働きを表す。他は知らず、この時にはという意。「袖ぞ」の「ぞ」は強調の係助詞で、係り結びとして働いている。文末を連体形にする。「ぬる」は、自然的完了の助動詞「ぬ」の連体形。
今年はこれでお別れだと七夕姫に別れる時は、天の河を渡れば当然波で濡れるはずの袖が渡らない前から別れの悲しみの涙でしとどに濡れてしまったことだなあ。」
牽牛の気持ちになって、七夕の別れを詠んでいる。悲しみの涙で、まだ天の河を渡っていいないのに、袖が濡れてしまったと言う。誇張表現によって、別れの悲しみの大きさを表している。厳密に言えば、暁は既に八日になっている。しかし、夜は続いており、気分の上で暁はまだ七日なのである。
牽牛の気持ちに託して、七夕という行事を惜しむ気持ちを表している。今、この素晴らしいひとときが過ぎ去ろうとしている。また一年待たなくてはならない。その寂しさを重ねているのである。

コメント

  1. すいわ より:

    別れの切なさ、お祭りの後の寂しさが伝わってきます。日は跨いでもまだ暗いうち、七夕の夜が続いているうちに立たないと。日が差してあなたの顔が見えてしまったら離れ難くなるから。「あかつき」の時間設定に去りたくない、去らねばならないという葛藤を感じます。

    • 山川 信一 より:

      七夕の別れは、当時の恋の作法を踏襲しています。当時は、男が宵のうちにやってきて夜を過ごし、暁に帰っていきました。ですから、意識としては、暁が日の変わり目だったのでしょう。
      恋が夜に行われたのは、恋が秘め事だったからであり、それにふさわしかったからでしょう。また、恋に顔はあまり関係ありませんでした。うっかり明るくなって顔を見てがっかりしたという話もありますから。
      恋は、目ではなく、心でするものと考えられていたのでしょう。

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