《女性の七夕》

題しらす そせい

こよひこむひとにはあはしたなはたのひさしきほとにまちもこそすれ (181)

今宵来む人には逢はじ七夕の久しき程に待ちもこそすれ

「今夜来る人には逢うまい。織女のように長い間待つことになるといけないから。」

「来む人」の「む」は、未確定の助動詞の連体形。まだ来ていないのである。「逢はじ」の「じ」は、打消意志の助動詞の終止形。ここで切れる。以下に逢わない理由を述べる。「待ちもこそすれ」の「も」も「こそ」も係助詞。「もこそ」で、悪い事態を予想して、危ぶんだり、心配したりする気持ちを表す。「・・・すると大変だ」「・・・するといけない」
今日は七夕だ。だから、今夜私を訪ねてくる人には逢わないでいよう。逢うことで、織女と牽牛が長い間待たなければ逢えないように、私もその人を待つことになるといけないから。
七夕の夜の女性の気持ちになって詠んでいる。愛しい人には逢いたいけれど、今夜だけは避けておこう。逢ってしまうと、織女のような運命になるかもしれないと恐れる。女性がこう思うのは、自分を一年に一度しか逢えない織女に重ねるからである。
七夕とは女性をこんな気持ちにさせる日であり、これも七夕の特色であると言うのだ。ちなみに、迷信とはこんな風にできるのかも知れない。「七夕には恋人に逢わない」、こんな迷信が生まれてもおかしくない。

コメント

  1. すいわ より:

    「会いたい人だからこそ今日ばかりは逢わないようにしましょう、織女のように逢えなくなることのないように」女性の立場だったらそうなのだろうか、と詠んだのでしょうか?
    かつて七夕の日に愛しい人を訪ねて行ったのでしょうか。その時、彼女はそんな風に思っていたのではないか?そして今、、自分は逢えない身となったなぁ、と自分を前に出さずに詠んだのかとも思いました。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、そんなストーリーも考えられますね。言わば、負け惜しみの歌ですね。捻りが利いていて、おもしろい。平安貴族なら考えそうです。
      逆に、女性の側からすれば、逢いたくない人への格好のことわりの理由になりますね。物語がいくつも作れそうです。

      • らん より:

        平安貴族がこんな風に考えていたなんて面白いです。
        迷信とはこんな風に出来上がるのかなあと思いました。
        粋な歌ですね。

        • 山川 信一 より:

          平安貴族の発想は現代人よりもずっと柔軟で独創的ですね。それでいて、独善的ではありません。現代人でも共感できます。詩とは、独創的かつ普遍性を持つものと考えていたのでしょう。

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