第百六十七段  長所の短所

 一道に携る人、あらぬ道のむしろに臨みて、「あはれ、わが道ならましかば、可くよそに見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よにわろく覚ゆるなり。知らぬ道のうらやましく覚えば、「あなうらやまし。などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智をとり出でて人に争ふは、角あるものの角を傾け、牙あるものの牙を咬み出だす類なり。
 人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸すぐれたるにても、先祖の誉にても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みてこれを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。一道にも誠に長じぬる人は、自ら明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に物に誇る事なし。

「一つの道に携る人が専門外の道の席に臨んで、『ああ、これが自分の道だったら、外野から見ていないだろうに。』と言い、心にも思っていることは普通のことであるけれど、まことにみっともなく感じられるのだ。知らない道が羨ましく感じられるなら、『ああ羨ましい。どうして習わなかったのだろう。』と言っていればいい。自分の知恵をとり出して人と争うのは、角有るものが角を傾け、牙有るものが牙を剝きだすのと同類だ。
 人としては優れていることを自慢しないで、何物であれ争わないのを美徳とする。他に勝ることが有るのは、大きなる欠点である。身分の高さでも、才芸が優れているのでも、先祖の名誉でも、人に勝っていると思っている人は、たとえ言葉に出して言わなくても、内心に多くの罪がある。慎んでこれを忘れるのがよい。愚かにも見え、人にも非難され、災いをも招くのは、ただ、この慢心である。一つの道にも本当に抜きん出てしまっている人は、自ら明らかに自分の欠点を知るために、向上心が常に満たされず、最後まで慢心することがない。」

人は絶えず他者より優れていたい、優越感に浸りたいと願い、そのために争う。しかし、争わないのがよいことなのであって、その意味で長所はむしろ短所なのだ。身分でも才芸でも家柄でも自分が優れていると思うのは、それ自体罪である。人の目にはその心が見え透いて、嫌がられ、災いの種になる。本当に一芸に優れている人は、己の欠点を知り、常に向上を願うから、慢心することが無い。
長所は短所であるという逆説を説く。なるほど、人は優越感・劣等感の虜になっている。それがどれだけの不幸を招いていることか。人との比較に囚われないで、己の道にただただ専心すべきである。そうすることで、人との比較は気にならなくなる。自分の欠点を絶えず意識して、向上を図るからである。真に優れている人ほど、謙虚である。まったくもっともである。

コメント

  1. すいわ より:

    「自ら明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に物に誇る事なし」、自己肯定感の低い、ストイックが服着て歩いているような人物に心当たりがあります。素晴らしい人物、こういう人に限って自覚がない。他者からの評価が低い?本当かしら。
    百六十五段と比べて例示が具体的で納得の出来る内容。他者の成果から刺激を受けて自分を動かす原動力にするのなら悪いことではないですが、比較して優劣をつける事に価値を見出せません。兼好の考えに賛同します。人と比べたところで何が変わる訳でもない、ならば少しでも良くなるように自分を変えていけばいいだけの事。そこに時間をかけた方がどう考えても生産的です。「慢心」、そう、満足してしまったらそこで終わりなのですよね。継続する、というのも才能なのだなぁと思いました。

    • 山川 信一 より:

      この段の内容は、私への励ましようにも思えました。習慣は第二の天性と言います。私のように才能が無いものは続けるしかありません。

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