第百六十六段  春の日の雪仏

 人間の営みあへるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること、雪のごとくなるうちに、営み待つ事甚だ多し。

「世間の人たちが互いにせっせと励む様子見ると、春の日に雪仏を作って、そのために金銀・珠玉の飾りをこしらえ、堂を建てようとするのに似ている。その完成を待って、安置果たすことができるのだろうか。人の命があると見る間も、中から消えることは、雪のようであり、その期間に、忙しく物事に励み、完成待つことが非情に多い。」

多くの人が命に限り有ることを忘れ、無意味な事業に時間と金を費やすのを戒めている。人の命の儚さを春の日の雪仏にたとえているのが巧みで、説得力がある。両者にどれほどの違いがあるかと問われれば、答えに窮する。命には限りがあることを自覚して、何をし、何をしないかをよく考えなければ、悔いの残る人生になる。たとえば、虚栄心のなすがままに行動すべきではない。虚しいだけである。

コメント

  1. すいわ より:

    虚栄心、厄介です。それが自分の為なら自業自得という事で済むけれど、子供を自分の「モノ」ととらえて「良い学校、良い会社、、」へとねじ込む為に奔走している間に柔らかな子供の心が足元からグズグズに溶けて無くなっていくのに気付かない親の姿を思い浮かべてしまいました。
    春の雪仏に人生をたとえるところが上手いですね。出来たそばから溶けて行く。その事に気付けない。気付かないふりをしているだけ?それを隠す為の急拵えの器。それを準備するのすら間に合わない。本末転倒です。虚しい。

    • 山川 信一 より:

      虚栄心から母親を連想しましたか。なるほど、この手の母親ほど罪深いものはありませんね。その罪深さは計り知れません。親とは何かを学ぶ場が無くなりましたからね。どうしたらいいのか、考えていきましょう。

タイトルとURLをコピーしました