第百六十段  言葉遣いの基準

 門に額かくるを、「うつ」といふはよからぬにや。勘解由小路の二品禅門は、「額かくる」とのたまひき。「見物の桟敷うつ」もよからぬにや。「平張うつ」などは常の事なり。「桟敷構ふる」などいふべし。「護摩たく」といふも、わろし。「修する」、「護摩する」などいふなり。行法も、「法の字を清みていふ、わろし。濁りていふ」と、清閑寺僧正仰せられき。常にいふ事に、かかる事のみおほし。

勘解由小路の二品禅門:(かでのこうぢの・にほんの・ぜんもん)藤原経尹。藤原行成の子孫。書家。

「門に額を掛けるのを、『うつ』と言うのはよくないのだろうか。勘解由小路の二品禅門は、『額かける』とおっしゃった。『見物の桟敷をうつ』もよくないのであろうか。『平張をうつ』などは普通に言うことだ。『桟敷を構える』などと言うのがよい。『護摩をたく』と言うのも、よくない。『修する』、『護摩する』などと言うのだ。行法という言葉も、『法の字を清んで言うのは、よくない。濁って言うのがよい。』と、清閑寺僧正がおっしゃった。常に言うことにこのようなことばかりが多い。」

言葉遣いを正している。基準は権威ある人物の言葉遣いである。しかし、言葉とは、使いやすいように移りゆくものである。偉い人の「正しい」言葉に従うべきものではない。その言葉も以前の言葉が変化したものを受け継いだものだからである。なるほど、一時流行する言葉はある。しかし、それが単に奇を衒ったものならば、必ず淘汰される。残るのは、より使いやすくなった言葉だけである。また、往々にして、人は自分が馴染んだ言葉を「正しい」と思いたがる傾向がある。しかし、誰が何を言おうと、移りゆくのが言葉の本質である。だから、有職故実や権威ある人物の言葉遣いを基準にするのは間違っている。兼好には言葉の機能がわかっていない。

コメント

  1. すいわ より:

    言葉のルーツを辿るのはとても面白いですけれど。発言に自信があるのなら、権威に後ろ盾になってもらう必要などないはず。言葉遣いの良い悪いを言うだけで何故その言葉をそう使うのかの説明がない為、説得力に欠けます。
    言葉はただ一人の為に存在するものでなく、他者とのやりとりがあってこその存在。だからこそ使い勝手良く変化して行く事は自然な流れで、個人がどう選択し使うかは自由だけれども、その変化を個人の主観で制限されるものではない。故実への執着ゆえに視野狭窄してしまっては言葉は育って行かないのではと思います。兼好って人付き合い苦手なタイプなのかも?

    • 山川 信一 より:

      同感です。付け足すことがないくらいに。兼好は、平安時代を理想的だと考えています。だから、彼の書く文もそれを模しています。すべての基準がそこにありそうです。

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