秋立つ日よめる 藤原敏行朝臣
あききぬとめにはさやかにみえねともかせのおとにそおとろかれぬる (169)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
「立秋の日に詠んだ 藤原敏行朝臣
秋が来たと目にははっきり見えないけれど、風の音に秋の訪れを気付かずにはいられないことだなあ。」
「秋来ぬ」の「ぬ」は自然的完了の助動詞で、始まりを表す。英語の現在完了に似ている。「風の音にぞ」の「ぞ」は係助詞で強調。係り結びで、「ぬる」に掛かる。「ぬ」は係り結びで連体形「ぬる」になる。「驚かれぬる」の「れ」は、自発の助動詞の連用形。自然に「驚く」という状態になっていたと言うこと。
暦の上では今日から秋だ。しかし、秋らしい風情はどこにも見えない。昨日までと何も変わっていない。暑さは続き、まだ夏そのものだ。しかし、ふと気づいて、はっとさせられた。やはり何かが違っていた。それは風の音だ。夏には、そよとも吹かなかった風が吹き始めたではないか。かすかながらも、風の音がするではないか。そうか、秋は風が運ぶものなのだ。秋は、まだ目で捉えることはできないけれど、耳では捉えることができる。
季節が暦通りに変わる訳ではない。しかし、立秋と言うからには、人は、何らかの違いを期待する。無理にでもその違いを求めようとする。そこで、作者は、秋とは、秋風が吹き始めること、それが立てるかすかな音なのだと言う。この歌は、ほんのわずかな違いにも秋の到来を切望する人々の思いを捉えている。
コメント
秋の巻に入りましたね。
季節の移ろいは人の定めた暦通りにはいかない。それでもその名を聞いてほんの一欠片でも秋を見つけて長かった夏から解放されたい。探しても見つからない、では目を閉じて、、そよ吹く風が木立を揺らす、その音に気付く。小さな発見。木々を渡ってそのうち風が頬を撫でるだろう。風が秋を運んで来る。こうして少しずつ、少しずつ秋が近づいて来る、、平安人は全身の感覚を研ぎ澄まして細やかに自然の変化を受け取っていたから、息をするように歌を詠めたのでしょう。
作者は、見えない風そのものに秋を感じようとしています。「風の音」は、風が引き起こした何かの音ではなく、風そのものの音です。そこまで秋を感じたいのです。作者が気づいたのは、風の音ばかりではありません。風の音に秋を感じている自分そのものにです。「ああ、私はこれほどに秋を求めていたのか!」と驚いているのです。貫之が理想とする歌は、普遍性を表した歌でした。普遍性とは、空間だけでなく時間も超える方がいい。とすれば、この歌は時間的な普遍性も獲得しています。なぜなら、現代人にも、こう思う作者の気持ちがよくわかるからです。日本の夏を過ごしたものが秋を求める思いは今も昔も変わりません。
頭で考えるよりも先に秋を求める心が風の中に秋をとらえていた事への驚き、感動なのですね。「日本の夏を過ごしたものが秋を求める思いは今も昔も変わりません。」全くその通りですね、気持ちを共有できる事に感動します。
風に秋を感じて驚くと共に、そんな自分にも驚いているのでしょう。やっと、『古今和歌集』にも、秋が来てほっとします。
郭公が終わり秋に入ったのですね。
この歌、すごいですね。
風で秋を感じたこと、秋を待っていた自分の気持ちの大きさにハッとさせたれたこと。
時代が違っても感じる心は同じだなあと共感させられました。
暦が替わったらと言って急に秋が来ないのは昔も今も同じです。そして、それでも、なんとか秋を探そうとする思いも。
日本の夏を経験する者には、共感できる思いですね。