第百五十四段       不自然への批判

 この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたはものどもの集りゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりにたぐひなき曲者なり。尤も愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただすなほにめづらしからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間植木を好みて、異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えれば、鉢に植ゑられける木ども、皆堀り捨てられにけり。さも有りぬべき事なり。

「この人が東寺の門に雨宿りをなさっていた時に、不具者たちが集まって座っていたのが、手も足も捻じれ歪み、反り返って、どこもかしこも不具で変わった様子なのを見て、『みなそれぞれに比べようのない風変わりな者である。まことに愛するにふさわしい。』と思って、じっと見つめている内に、すぐに面白みが無くなって、見苦しく、鬱陶しく思えたので、ひたすらありのままで、珍奇でないものには及ばないと思って、家に帰ってから、この頃植木を好んで、異様に曲がりくねったものを求めて目を喜ばせていたのは、あの不具者を愛するのと同じだったのだと、つまらなく感じられたので、鉢にお植えになった木などを皆堀りおこしてお捨てになってしまった。いかにももっともなことである。」

これも資朝の人となりを伝えるエピソードである。資朝は、不具者を見て初めは興味を持ったけれど、直ぐ不快に感じる。そして、その経験により考えを変えて、趣味で集めていた曲がりくねった枝振りの木をすべて捨ててしまう。変わったものより平凡なものの方がよいと悟ったからだ。
資朝の三つのエピソードの中でこれだけに同意のコメントが添えられている。兼好が特にこの話に共感したとも、全体をまとめて言ったとも解せる。いずれにしても、兼好が資朝の考え方・生き方に賛同していることは確かだ。
資朝は、常識に囚われない考え方・生き方をする。年寄りであるという理由だけで、その人物を敬おうとはしない。不具者を思いのままにじろじろ眺めることも厭わない。そして、飽きれば不快感を持つ。自分の感情にどこまでも正直である。だから、考えが変われば、集めた異様な枝振りの木も惜しげもなく捨ててしまう。
資朝は、ありのままで平凡なことを好み、異様さを嫌う。それは元々の性質を無理に捻じ曲げることになるからだ。この話は、それとは反対に珍奇を好むことへの批判になっている。このことで、兼好は資朝を評価している。
なるほど、奇を衒うのはよろしくない。しかし、資朝が不具者に対して持った思いは、素直と言えば素直であるけれど、現在なら批判されるに違いない。人は、好き好んで不具になった訳ではないからである。盆栽などとは違う。人にしても、木にしても、捻じ曲がっているのが自然であることもある。
また、ありのまま・自然であればいいと言うものでもない。自然の反対は不自然である。その不自然に形を与えたのが文化である。ならば、一概に不自然を否定できない。文化がいつでも自然に劣る訳ではないからだ。たとえば、年寄りや不具者への態度や感情も文化の一種である。この態度は、人間社会の中で十全に機能している。むしろ、否定する方が弊害が多い。もちろん、文化の盲信はよくない。それへの批判はわかる。しかし、単に不自然という理由だけで、直ちにその文化を否定するべきではない。どうも、兼好はこのことに気づいてないようだ。

コメント

  1. すいわ より:

    突然の雨で思わぬ場所で雨宿りをしたのでしょう。「不具者」を初めて目の当たりにして興味をそそられた。でも、良く見れば「何だ、人間ではないか!」、、
    といったところなのでは。三つのエピソードを通して見ると、資朝、天衣無縫、実に自分の思いに真っ直ぐで周りの立場であったり視線などに無頓着。ひとことで言うと「子供」。兼好は「常識に囚われない」「ありのまま、平凡」を好む自分の志向に寄せて資朝を描いたようにも見えます。
    気を衒ったものを良しとしない(海外の珍品を無闇にコレクションするとか)兼好に都合のいい「おはなし」ですが、全てを同じ定規では測れないし、同じ型には嵌められない。資朝みたいな人、好きですけれど、そういう意味では相当型から外れていますよね。「型」が何のためにあるのか、今回は考えさせられました。

    • 山川 信一 より:

      この話は、大学入試の小論文の課題文にも使えそうですね。様々な意見が出そうです。物事は、何か普通で何が異常なのでしょう。また、自分のありのままの考えとか感情とかはどうやって作られているのでしょうか?それに素直に従うことが正しいのでしょうか?いくらでも考えることが出て来ます。

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