《郭公との一体感》

郭公のなきけるをききてよめる みつね

ほとときすわれとはなしにうのはなのうきよのなかになきわたるらむ (164)

郭公我とはなしに卯の花の憂き世中になき渡るらむ

「郭公が鳴いたのを聞いて詠んだ  躬恒
郭公は私ではないのに、卯の花が咲く季節、つらいこの世になぜ鳴き渡っているのだろう。」

「郭公」が歌全体の主語になっている。「泣き渡るらむ」まで掛かる。「とはなしに」は「・・・ではないままに」という意の連語。「卯の花」は「憂き世」の「う」を引き出す枕詞。「なき渡るらむ」の「なき」は「泣き」と「鳴き」の掛詞。「らむ」は、現在推量。ここは郭公が今「鳴く」原因理由を推量している。
私はこの世の中のつらさに泣き暮らしている。ふと、郭公の鳴き渡る声が聞こえてきた。それはまるで今の私のように思える。卯の花が咲く季節は、お前にとって好ましい季節ではないのか。どうして郭公は、私ではないのに、私みたいに鳴き渡っているのだろうか。そうしていれば何とか生きて行けるのだろうか。
郭公の声は聞き手の境遇によっていかようにも聞こえる。ただ、この歌では、前の歌以上に郭公に感情移入している。郭公との一体感さえ持っている。郭公の声をこう聞くことで自らのつらさを慰めているのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    何かに転写する事で気持ちが軽くなる事、ありますね。自分では処理できない感情を誰かがそうするのを見て実感する、人の泣くのを見て自分も悲しかったのだと自覚するような。そしてその感覚を共有する他者がいる事で自分だけではなかったと落とし所がつく事もあります。郭公は鳴いているだけ、でも、自分の泣きたい気持ちが郭公の鳴く姿に重なる。卯の花の香りに閉じ込められたこの空間、郭公の鋭い声で、その外側へ届くといい(だから躬恒はこうして詠ったのですね)

    • 山川 信一 より:

      優れた歌は、極めて特殊な事情の普遍性を表現しています。つまり、特殊な具体的な場面によって普遍を表しています。その意味で、特殊と普遍を兼ね備えています。これが貫之の理想です。躬恒のこの歌もそれを実現しています。
      ここで言う普遍とは、自分の特殊な事情や思いが他者に伝わることを言います。たとえば、「卯の花の香りに閉じ込められた」何かが「外側に届く」ことです。

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