《郭公の声》

題しらす よみ人しらす

おもひいつるときはのやまのほとときすからくれなゐのふりいててそなく (148)

思ひ出づるときはの山の郭公唐紅のふりいでてぞ鳴く

「思い出した時、常磐の山の郭公は、美しい紅色のような声を張り上げて鳴くのだなあ。」

「ときは」は「時は」と「常磐」が掛かっている。「唐紅の」は「ふりいで」の序詞。「ぞ」は係助詞で強調。係り結びになっている。「鳴く」は連体形。
歌の構造としては、「おもひいづるときはふりいでてぞなく」が本体で、それに「ときはのやまのほととぎす」を挟み込んでいる。したがって、本来の歌の意味は、次のようになる。「悲しいことを思い出した時、私は声を張り上げて泣いてしまう。その声はまるで郭公が鳴く声のようである。」それを主客転倒して、郭公の歌としてここに載せている。つまり、次のような意味になる。「郭公の声は、私が悲しい時に声を張り上げて泣く、あの声にそっくりである。」
ただし、「本来の」「主客転倒」という言葉を使ったけれど、それは正確ではない。何が「本来」であるか、何が「主客」であるかは、言葉自体では決まらないからである。言葉とは、ある状況に於けるコミュニケーションの道具なのである。状況によって、「主客」は変わる。したがって、言葉の意味はいかようにも変わり得る。「唯文主義」に陥ってはいけない。言葉の意味とは、その状況に於ける意味なのだ。貫之は、前の歌とこの歌でそれを伝えている。
「常磐」で緑色を連想させ、「唐紅」の赤色を対照的に際立てている。「唐紅」は郭公の声の印象を表している。郭公の声は、色にたとえるなら、「唐紅」のような深紅を連想させる声なのだ。この序詞は単なる飾りではない。こうして、「思ひ出づるときはふりいでてぞなく」と「唐紅」とによって、郭公の声を見事に再現している。

コメント

  1. すいわ より:

    常磐の緑は新緑の淡い色とは違って暗く感じるくらいの濃い緑を連想します。紅と緑の目の眩むようなコントラスト、夏の強い陽の光とそれが作る影を思わせます。ここまで視覚の作用を書いているのに表現したのは郭公の「声」。音という形ないものを視覚化し鮮烈に印象付けるとは!恐れ入りました。

    • 山川 信一 より:

      視覚から聴覚への反転もこの歌のオリジナリティですね。『古今和歌集』には、駄歌がありません。一首一首に独自の価値がありますね。

  2. 義明 より:

    過去の授業2021.05.12にコメントを書いてみたのですが、最新の授業にしかやっぱコメントはだめでしょうか?
    もしよいのであれば、
    追加です。

    「その」が釈迦入滅を指すとして、
    西行は花と望月を見ています。花のもとにて仰ぎ見る、花の間、その向こうに満月
    釈迦入滅時に神々が花を降らせた情景を、坊主なら重ねるも重ねないも不遜と感じて、することはないんじゃないか。でもこれは完全に個人の感想でたぶん大間違いしているでしょう。
    音も合わない「その」って何が「その」なのでしょうか?

    • 山川 信一 より:

      「最新の授業にしかやっぱコメントはだめでしょうか?」いいえ、そんなことはありません。お書きください。「過去の授業2021.05.12」とは、第十段(住居は人柄)ですか?
      「追加」以下のご質問は、コンテクストがはっきりしないので、意味がわかりかねます。再度ご説明願います。

  3. 義明 より:

    はい。第十段(住居は人柄)にコメントを送ったのですが、スパムフィルターかかっちゃったかもしれません。2022年3月24日 9:34 PMのものは、それへの追加でした。

    第十段(住居は人柄)に送ったコメント:

    西行でサイト内検索したらここが見つかったのでここで質問してしまってもかまわないでしょうか?
    西行は、ねがわくははなのもとにてで、なぜ、「その」を使ったのでしょうか?
    “はるきさらぎ”はダブるからできないし、でも、”その”でどこ?と一瞬迷うし音も合わない気がします。

    以下
    第十段(住居は人柄)への感想
    烏が池の蛙を取るのは仕方ないです。見たくないならまず池造るな。実際縄なんかはったって烏は撃退できないです。布都振り回してカラスと戦えっ。

    すみません。2022年3月24日 9:34 PMのと合わせてはなのもとにての質問、よろしくお願いいたします。

    • 山川 信一 より:

      了解しました。ただ、それなら、第十段(住居は人柄)のコメントに書き込んだ方がわかりやすくなります。もし、これから何かあれば、その文章があるところにコメントしてください。
      「西行でサイト内検索したらここが見つかった」とか、どんな関連があるのでしょうね。不思議に思いました。ネットの世界は摩訶不思議です。
      さて、「願はくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」の「その」についてですね。「こそあど」という指示語があります。「こ」は話し手の近くを、「そ」は聞き手の近くを、「あ」は話して聞き手のどちらから遠くを、「ど」は不定の場所を指します。この歌の場合は、「そ(の)」ですから、話し手の近くを指します。たとえば、「義昭さんも、その国語辞典で調べてみてください。」という風に使います。
      この歌で「その」は、聞き手の知識を指しています。あなたが知っている「その如月」、つまり、お釈迦様が亡くなった「その如月」という意味を表しています。なお、この歌では、「花」も「望月」も観念的なものです。
      「第十段(住居は人柄)への感想」の「布都」とは何ですか?確かに、本気で追い払うつもりなら、縄では手緩いですね。

  4. 義明 より:

    第十段(住居は人柄)にコメントを書き込んだんですが、「あなたのコメントは承認待ちです」の画面に推移しなくて、スパムフィルターではねられたみたいなんです。

    「その」は、こっち側にdepends uponの「その」だったんですか!
    >この歌では、「花」も「望月」も観念的なもの
    歌って難しいですね。どうしても自分はフィジカルに見てしまう‥

    布都は布都御魂のつもりでした。略しちゃってすみません。
    2019年4月最初のから拝読中であります。<(`・ω・´)
    ので、お授業の流れを邪魔しないようこっそり教えていただくつもりであります。よろしくお願いいたします。ご返信ありがとうございました。

    • 山川 信一 より:

      そうだったのですね?私はこの手のことに疎いので、なぜだかわかりません。時々、以前のものにコメントがあるので、問題無いと思っていました。
      布都御魂のことでしたか!結びつきませんでした。初めからお読みいただいているとのこと、ありがとうございます。何なりとご質問ください。お待ちしています。

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