《山越えの清涼》

おとは山をこえける時に郭公のなくをききてよめる  きのとものり (142)

おとはやまけさこえくれはほとときすこすゑはるかにいまそなくなる

音羽山今朝越え来れば郭公梢遥かに今ぞ鳴くなる

「音羽山を越えた時に郭公の鳴く声を聞いて詠んだ 紀友則
音羽山を今朝越えて来たところ、郭公が梢の遥か彼方にたった今鳴いているのが聞こえてきた。」

「今ぞ」の「ぞ」は、今鳴いていることを強調している。「鳴くなる」の「なる」は聴覚推定の助動詞。「聞こえる」「鳴いているようだ」で、鳴いている姿は見ていない。
詞書きは作者の経験であることを表している。この歌がそれに基づいていることを強調するためである。音羽山は京都から近江(滋賀県)に出る道に当たる標高五九三メートルの山である。その山を夏の暑い日、越えて来た。大分汗をかく。すると、こんもりとした木々の梢の彼方から郭公の声が聞こえてきた。たった今、確かにそれを聞いたのだ。それは一服の清涼剤とも言うべき清々しさを感じさせた。その感動を詠んでいる。
作者と郭公に分け、場所、時間、行為、状況を簡明に表現する。それによって、感動を伝えている。

コメント

  1. すいわ より:

    いよいよ夏の始まり。山越えする為に暑くなる前に出発したのでしょう。気温も上がって来て額には玉の汗でしょう。山頂を越え見晴らしの良くなった時、ホトトギスの声を聞く。「こすゑはるかに」なのだから姿は見えない。でも見えないからこそ、それを求めて辺りを見回す。目に映る緑は眩しく、小枝を揺らす風のそよぎも感じられそう。ホトトギスの一声が涼をもたらしました。

    • 山川 信一 より:

      前後にも上下にも広がりを感じる歌ですね。辺りの風景が目に浮かんできます。そして、郭公の声が聞こえてきます。さらに、夏の暑さと一瞬の清々しさも。視覚、聴覚、触覚に訴えてみます。歌の構成と共に隙のない表現です。

      • らん より:

        ホトトギスの鳴き声ひとつで、目の前にばあーっと情景が広がってきました。
        森林浴で癒される感じ。
        いいですね。

        • 山川 信一 より:

          なるほど、そうですね。鳴き声がスイッチになっているんですね。納得しました。
          森林浴かあ、確かに青葉に包まれていますね。

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