《郭公の初音》

題しらす  伊勢

さつきこはなきもふりなむほとときすまたしきほとのこゑをきかはや (138)

五月来ば鳴きも古りなむ郭公まだしきほどの声を聞かばや

「五月が来たら鳴き声も古くなってしまうだろう。郭公よ、まだ鳴く時節でない頃の声を聞きたい。」

「古りなむ」の「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形。「む」は推量の助動詞「む」の終止形。「なむ」で未来完了を表す。ここで切れる。「郭公」は独立語で、郭公に呼びかけている。ここで再び切れる。「まだしき」は形容詞「まだし」の連体形で、「まだその時期や段階になっていない」の意。「聞かばや」の「ばや」は終助詞で、その人自身の願望を表す。
「鳴きも」も「も」で暗示されているのは、その姿である。まして、姿だけではなく肝心の鳴き声までもと言うのである。ここでの「古り」は新鮮味が無くなることを意味する。五月になり、姿を見せて鳴き出したら、その価値は下がってしまう。まだ鳴くはずのない頃の鳴き声こそが価値があるのだ。「まだしきほどの声を聞かばや」とは、それを聞きたい、できれば、人に先んじて初音を聞きたいという思いを言う。そんな新しもの好きな思いを詠んでいる。

コメント

  1. すいわ より:

    初物好きはこんな時代からだったのかと一瞬思いましたが、季節と共に生きていたからこそ今以上に待ち焦がれる気持ちが強いのでしょうね。流行の最先端を誰より先にというのと同じような気もします。

    • 山川 信一 より:

      初物好きは今も昔も変わらない気質ですね。対象が変わっただけです。流行はそれを利用したもの。仕掛け人が次々に流行を作りだし、利益を得ています。だから、エッセンシャルワーカーより広告業の方が収入が遥かにいいのです。

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