第百二十五段  感情の不確かさ

 人におくれて、四十九日の仏事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして、皆人、涙をながしけり。導士帰りて後、聴聞の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊く覚侍りつる」と感じあへりし返事に、ある者の言はく、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなんうへは」と言ひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。
 又、「人に酒勧むるとて、おのれまづたべて人に強ひ奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たる事なり。二方に、刃つきたるものなれば、もたぐる時、先づ我が頸を斬る故に、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ酔ひて臥しなば、人はよも召さじ」と申しき。剣にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりけり。

導士:法会・供養などの時、その中心になる僧。

「人に先立たれて、四十九日の仏事に、ある聖を迎えましたところ、説法が素晴らしくて、誰もが涙を流した。導士が帰って後、聴聞の人たちが『いつよりも、殊に今日は尊く感じましたなあ。』と感激し合った返事に、ある者の言うことには、「何に致しましても、あれほど唐の犬に似ておりますからには。」と言ったので、感動も覚めておかしかった。そんな導師のほめ方はあってよいものか。
 又、「人に酒勧めると言って、自分がまず飲んで人に無理に勧め申し上げようとするのは、剣によって人を斬ろうとするのに似ていることである。両方に、刃が付いているものなので、持ち上げる時、まず我が首を斬るために、人を斬ることができないのだ。自分がまず酔って臥してしまったら、人は決してお飲になるまい。」と申しました。剣で斬り試みたのだろうか。たいそうおかしかった。」

エピソードが二つ、ほぼ対照的に並べてある。共通するのは、以下の通り。①どちらも経験の助動詞「き」が使ってある。②たとえが出て来る。③感想を述べている。④「をかしかりけり」とある。これを通して言いたいのは、どちらも、たとえが適切に使われていないということだ。ただし、その理由の次元が違う。前者は、たとえそのものはおもしろく気が利いている。しかし、使い方が悪い。褒め言葉になっていない。後者は、たとえそのものが不適切だ。実際に自分で試したのかも知れないけれど、読み手にはたとえとして今一つピンとこない。
こうして比較してみると、言いたいのは前者であって、後者はダミーのように思えてくる。つまり、たとえの使い方の不適切を問題にする振りをして、言いたいことは別にあるようだ。
唐犬のたとえによって感涙にむせぶほどの感動が覚めてしまう。これは、たとえた人を責めるべきであろうか。いや、むしろその程度の事で覚めてしまう感動とは何かを疑うべきである。感動など、これほど簡単に覚めてしまうのだ。これが感情というものの正体である。感情とはかくも当てにならない。以上が真に言いたいことだ。
しかし、これをストレートに言うと聖人を冒瀆しているようにも取られかねない。そこで、後者を付け加える、このカムフラージュが必要だったのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    カムフラージュのための後半部分。何故こんな剣の例えが出るのか、さっぱりわからなかったです。なるほど、件の人物は狂言回しなのですね。こういう人、兼好は嫌いそう。
    後の会食も含めた法事の一場面。どこにも場を荒らす人っています。まさかの導士の容貌に着目、でも、場の一堂もこの一言に持って行かれて瞬時に導士の容貌を思い浮かべ、折角の説法も台無し、興醒めした。感動の「共有」も疑わしく思えてきます。導士の説法を良く解して感動した人が本当はどれだけいたのか。
    後者の話は剣の例え部分は全く必要ない、かえって言わんとすることが伝わりづらくなっています。この後半を書いた(切り捨てきれない)ことで前半の話が吹き飛んで主題となるものが死んでしまっているところが剣の例えと辻褄が合う、ということなのでしょうか?わかりづらいです。

    • 山川 信一 より:

      後者のたとえ話がなぜ加わったかが疑問でした。全くたとえになっていません。前者だけの方がスッキリします。なのになぜ書いたかを考えることがここでの読みでした。
      すると、どちらにもたとえが適切でないという共通点が見つかります。ただし、その理由が異なります。したがって、批判も違ってきます。ともあれ、これでたとえがこの段のテーマのように見えます。
      しかし、それでは前者の話の面白さが失われてしまいます。兼好も本当は前者だけにしたかったはず。それをなぜそうしなかったのか?その訳を考えたのが今回の読みです。
      聖人についての話はタブーだったので、それを巧みに避けたのでしょう。前者の話はつっこみどころ満載なのに。

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