《春の名残惜しさ》

亭子院の歌合のはるのはてのうた みつね

けふのみとはるをおもはぬときたにもたつことやすきはなのかけかは (134)

今日のみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花の影かは

「亭子院の歌合の春の果ての歌  凡河内躬恒
今日を限りと思わない時でさえも立つことが容易い花の影であるか、いやそうではない。まして今日は春の終わりの日なのだから尚更である。」

「だに」は程度の低いものを挙げてそれ以上のものは当然であることを意味する副助詞。「かは」は、「か」も「は」も終助詞で、反語を表す。
春の最後の日の特別な思いを詠んでいる。春も今日で最後だと思うと、殊更花影を去りがたいと言う。ただし、これは春という季節への名残惜しさも象徴している。何と言っても、春は花の季節である。この歌の「花」は、時期的に桜とは考えられない。この花だと、限定していない。春の花を漠然と指している。したがって、この歌は、花に代表される春を立ち去りがたいという思い、すなわち、春への名残惜しさを表しているのである。そして、貫之がこの歌を春の最後に持ってきたのは、『古今和歌集』の春の巻を終わらし難いという思いを暗示するためである。
さて、この歌には「のみ」「だに」「かは」が初め・中・終わりに効果的に配置されている。この「のみ」「だに」「かは」は、一種の歌の型である。この型を使えば、感動は歌になる。その提案でもある。そこで、この型に適当に言葉を当てはめてみる。
「我のみと君の思はぬ時だにも立つことかたき藤の陰かは」何だか歌らしくなるではないか。

コメント

  1. すいわ より:

    花を限定しない事で誰もがそれぞれの思う花を思い描けます。思い描いた時点でもう訪れることのない「この春」に限定されるのですね。またやってくるに違いない春でなく、今この時を惜しむ。手放し難い思い、後ろ髪引かれながら春の巻を締めくくる。編集の秀逸さが光ります。

    • 山川 信一 より:

      花への未練は、春への未練、そして、春の巻を閉じる未練へと繋がっていきます。心にくい編集ですね。

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