第百十九段  鰹のドグマ

 鎌倉の海に鰹といふ魚は、かの境にはさうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄りの申し侍りしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。

「鎌倉の海で獲れる鰹という魚は、あの地方では比類の無いもので、近頃もてはやすものである。それも、鎌倉の年寄りが申しましたことは、「この魚、私どもが若かった世までは、立派な人の前へ出すことがありませんでした。その頭は身分の低い者も食わず、切って捨てましたものです。」と申しました。このような物も、世の末になると、上流社会までも入り込む有様でございますが・・・。」

鰹という名は、堅い魚(かたうお)から来ていると言う。ならば、この批判は、それまでは鰹節にしていたのが生でも食べられるようになったことを言うのか。いずれにせよ、ここにも兼好の尚古趣味が表れている。これはドグマである。ドグマとは、疑うことなく信じられている状態であり、信じられてる内容の確実性は保証されていないことを言う。人は自分が慣れ親しんだものを基準にしたがるらしい。しかし、兼好にはその狭量さへの反省は無い。こんなところまでもと思うと、呆れるやらおかしくなるやら。
同じような話は現代でもある。マグロについて、「近頃はトロがもてはやされるが、昔は捨てたものだ。マグロと言えば赤身だった。」などという話を聞く。こうしてみると、いつの世にもありがちな話である。
しかし、たとえば、鰹の頭は食べてみれば旨く、栄養価も高い。日本人は、食に関してかなり柔軟である。その柔軟さが日本文化を育ててきたのではないか。

コメント

  1. すいわ より:

    前の段に続き食べ物の事。今回は世間の食べ物の嗜好の変化について年長者の言を借りて批判しています。ピンポイントに鰹を取り上げていますが、「鎌倉」「鰹」と聞くと「勝緒」、武者ぶりを感じさせ、雅を尊ぶ兼好が時流が武士の世に傾いて古式ゆかしいものが廃れて行く事を食べ物の流れで暗に批判しているのでは?とも思えました。
    もっと時代が下って「女房を質に入れても初鰹」なんて聞いたら「そら、見たことか!卑しいったらない」と怒り出しそうです。

    • 山川 信一 より:

      「「鎌倉」「鰹」と聞くと「勝緒」、武者ぶりを感じさせ、雅を尊ぶ兼好が時流が武士の世に傾いて古式ゆかしいものが廃れて行く事を食べ物の流れで暗に批判している」、なるほどそんな気もします。その思いは常にあるでしょう。
      ただ、だとしたら少しまどろっこしいですね。「批判ならもっとはっきり言わんかい!」と言いたくなります。

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