《春の欠片》

やよひのつこもりかたに山をこえけるに、山河より花のなかれけるをよめる ふかやふ 

はなちれるみつのまにまにとめくれはやまにははるもなくなりにけり (129)

花散れる水のまにまにとめ来れば山には春もなくなりにけり

「弥生の月末の頃に山を越えた時に、谷川から花が流れていたのを詠んだ 清原深養父
花が散って浮いて流れている水のままに春を訪ね求めて来たところが、山には春もすっかり無くなってしまったことだなあ。」

「散れる」は、「散り」+「あり」が一語化した「散れり」の連体形。存続の意を表す。「来れば」の「ば」は、以下に述べる事柄の条件を表す。「春も」の「も」は、他にあることを暗示する。この場合は「花が無い。そして、春までも」の意を表す。
三月の下旬に山を越えることがあった。すると、谷川に花びらが流れているのを発見した。山にはまだ花が咲いていること知る。ここには、まだ春が残っていたのだ。そこで、花びらが流れている谷川のままに春を訪ねていった。しかし、いつしかそれも途絶えてしまう。花だけでなく、春までも無くなってしまったことを悟る。
花びらは春の欠片である。行く春を惜しみ、どこかに春の名残はないかと探し求める。そんな春への未練を表している。

コメント

  1. すいわ より:

    もともと春を探していたわけではなく、たまたま山越えの用事の途中に水の流れに浮かぶ花と出会ってしまった。罪深いですね。春のかけらを求めて山へ分け入り、でも、探し当てられない。目にした流れの花が最後の一つだったのかもしれない。ならば当然、山には花は無い。それでも追い求めてしまう。次会えるまで、せめて一目でも、、。こうして春への思いは積み重なって行くのですね。

    • 山川 信一 より:

      誰の心にもある惜春の情をどう描くかですね。この歌は谷川を流れていった最後の花びらで描き出しました。これも、見事な「万の言の葉」の一つです。

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