《春の物憂さ》

やよひにうくひすのこゑのひさしうきこえさりけるをよめる  つらゆき

なきとむるはなしなけれはうくひすもはてはものうくなりぬへらなり  (128)

鳴き止むる花し無ければ鶯も果ては物憂くなりぬべらなり

「三月に鶯の声が久しく聞こえなかったのを詠んだ   貫之
鳴くことで散るのを止める花なんて無いので、鶯も終いには鳴くのが億劫になってしまったようだ。」

「(花)し」の「し」は強意の副助詞。「べらなり」は、状態の推量を表す。「・・・に違いないようだ」。「べし」の語幹「べ」に状態を表す接尾語「ら」がついて、更に断定の助動詞「なり」がついて一語になったもの。
春も終わりに近づくと、鶯の声が聞こえなくなる。そこで、その理由を次のように推量する。鶯はいくら鳴いても散る桜を止められなかった。それで、鳴くのが億劫になってしまったからだと。では、なぜそう推量するかと言うと、作者自身も、散る桜を止めようと泣いたからである。そして、その甲斐の無さに作者自身が今物憂くなっているからである。「(鶯)も」が暗示しているのは、作者の行為や思いである。
鶯の声が久しく聞こえない理由を推量するのは、次のように自分を納得させるためである。この物憂い気分は、自分だけのものではないのだ、鶯も同様なのだと。
晩春の気だるく物憂い気分は、誰でもが経験するものだ。では、それをどう取り出して表現すればいいのか。貫之は、それを鶯に託してこう表現したのである。

コメント

  1. すいわ より:

    鶯「も」ですものね。鶯同様貫之「も」鳴いた(泣いた)ところで甲斐のないことだ、と。聞こえていない鳴き声を描写する辺りが貫之らしいように思います。
    花が去り、鶯も去り、いよいよ春が潰える。春の歌をいつまでも歌っていたい、でも今は「無」となった春、次の季節に踏み出すにはまだ未練もある。春まだ浅い頃、いない鶯の姿を探して外を伺っていた時と同じ行動を取ってしまう。心持ちは正反対なのに同じ動作、物憂さが更に増した事でしょうね。

    • 山川 信一 より:

      鶯は鳴くことで春の訪れを告げ、鳴かないことで春が行くことを告げます。「默説」というレトリックがあります。言わないことで、何かを伝える表現方法です。
      「サウンドオブサイレンス」という言葉もあります。何も言わないことも多くを語りますね。

  2. らん より:

    自分と鶯は同じ気持ちなのだ、僕だけじゃないね、花を惜しむのはと、貫之が想っている気がしました。
    泣いてももう行っちゃった、また来年会おうねと、静かに見送ったのかなあと。

    • 山川 信一 より:

      鶯が鳴かないことを言って、自分の気持ちを表しているのですね。自分の気持ちの表し方には様々なものがありますね。
      直接言わないで、言いたいことを伝える。らんさんなら、どうしますか?

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