《季節は移ろう》

題しらす よみ人しらす(一説、たちはなのきよとも)

かはつなくゐてのやまふきちりにけりはなのさかりにあはましものを (125)

蛙鳴くゐでの山吹散りにけり花の盛りに会はましものを

ゐで:堰。川をせき止めてあるところ。また、井手という地名。(京都府綴喜郡にある。)

「蛙が鳴く堰のある井手の山吹が散ってしまったことだなあ。こうと知っていたら、もっと早く来て花の盛りに会いたかったのになあ。」

「かはづ」は蛙を言う歌語。「ゐで」には、堰と地名の井手が掛けてある。「まし」は反実仮想の助動詞。「ものを」は終助詞で強い詠嘆を表す。「・・・のになあ」
山吹の花がすっかり散ってしまったことを嘆く。「会はまし」と言い、山吹を人のように扱うことで、山吹への愛着を表している。かはづの鳴き声を想像させることで、臨場感を出している。かはづは山吹の花が咲いているのを教えてくれていたのかも知れない、なのに自分はなぜ早く来なかったのかと思う。こうして、季節が移ろうことを悲しみ惜しんでいる。山吹の花の歌はここまでである。
ただし、かはづと山吹の取り合わせは、この歌のオリジナルではない。万葉集に次の歌がある。
「かはづ鳴く神なび川に影見えて今か咲くらむ山吹の花」(1435)
「かはづ鳴く」と言えば、山吹の花を連想することが期待されている。これを暗示引用と言う。歌の世界を広げる技法であり、読み手を仲間に引き入れる働きもある。これが本歌取りという技巧に繋がっていく。
ただし、ある意味で言葉はすべて暗示引用である。たとえば、前の歌の「吉野」という地名もそうである。読み手に吉野の桜を連想することが期待されている。言葉はそれ自体で独立していることはない。

コメント

  1. すいわ より:

    花時を逃してしまったことを心の底から惜しんでいる気持ちが伝わります。川岸に来てみたものの、お目当ての花の色は無く、緑の叢があるだけ。姿を見せない蛙の鳴き声が春が行ってしまったことを告げているようです。山吹、河岸に咲いているイメージがあまり無いのですが、どの歌も何か水を思わせる言葉と取り合わせてありますね。「かはつなく」は山吹を連想させる、とのことですが、蛙から早苗植える前、終わりの春の花として選ばれたのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      山吹→水辺→かわづへと連想が及んでいったのでしょう。昔は水辺に植えたのでしょうか?「山」とあるくらいですから、あまり水のイメージは湧きませんね。しかし、だからこそ水と取り合わせることで、新鮮な詩情を生み出したのかも知れません。かえるが鳴く頃になると、春も終わりです。そういったことを誰かが歌にして、それが踏襲されていったのでしょう。

  2. らん より:

    山吹の歌は桜に比べて本当に少ないですね。桜がどんなにすごいのかがわかりました。蛙と山吹で春の終わりを感じます。

    毎日寒くて。。。春が待ち遠しいですね。

    • 山川 信一 より:

      それが山吹の存在感を表しているのでしょう。蛙も山吹も春の終わりを告げる題材ですね。
      今日から二月。立春も直ぐそこです。我が家の梅もいつ咲こうかと身構えています。

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