第百十一段   柔軟な思考

「囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふ」と、あるひじりの申しし事、耳にとどまりて、いみじくおぼえ侍る。

四重:(しぢゃう)仏教語。四種の大罪。邪淫戒・偸盗戒・殺生戒・妄語戒を犯すこと。
五逆:(ごぎゃく)仏教語。五種の大罪。父・母・阿羅漢(=悟りを開いた最高位の者)をそれぞれ殺すこと。和合している僧の仲を裂くこと。仏身からから血を出すこと。これらを犯せば無間地獄に落ちるという。

「囲碁・双六を好んで夜を明かし日を暮らす人は、四重・五逆にも勝っている悪事をすると思う。」と、ある聖が申したことが耳に留まって、素晴らしく感じました。」

「申しし事」と「し(き)」が使ってあるので、この話も兼好自身の経験として語っていることがわかる。前段では双六名人、この段では聖と、交際関係の広さを誇示している。
聖の言葉は、囲碁・双六に耽って、仏道修行をおろそかにしている法師に対する戒めだろう。それらは賭事でもあったはずだ。これくらい言わなければならないほど、法師たちの日常生活が目にあまる状態だったことが想像される。だから、兼好は、聖に共感しているのだ。
兼好がこの段でも双六を取り上げたのには理由がある。この二段を通して、言いたいことがあったからだ。兼好は、双六そのものを肯定も否定もしていない。俗人にそういう人物がいてもいい。ただし、法師はそうあってはならない。つまり、物事には、絶対に正しいことも絶対に間違っていることもない。正しいか間違っているかは、誰がどんな状況の中でするかによって決まる。だから、物事はこのことを考慮して判断しなければならない。こう言いたいのだ。囲碁・双六にしても、時に応じて楽しく遊べばよい。もっともな考えである。

コメント

  1. すいわ より:

    確かに前段で双六の事、書いてました。一方はそれが卑俗なものであっても、その技術を究めていけば盤上の外側の物事の道理の理解にも繋がる。もう一方は聖から見た絶対悪としての存在。これはこれで聖人としてキッパリと俗世の余興とは距離を置く態度に兼好は好感を抱いたのでしょう。
    一段にまとめて書いても良かったのではないかと思いましたが、敢えて段を分けた事で一つの対象が立場の違いで全く異質に捉えられている事が明確になるからだったのですね。
    現代に置き換えると、ソーシャルメディアとの付き合い方が分かり易いでしょうか。使い方によって非常に便利なものにもなるし、厄介極まりないものにもなる。使う主体が変わる事で様々な顔になります。「そのもの」自体、善でも悪でも無い、扱う側が制御するか、踊らされるか。前段とセットで読むとより多層的に考えさせられます。

    • 山川 信一 より:

      『徒然草』の段は、後から編者がつけたものです。兼好自身には関わりません。兼好は、第百九段からの三段の内容を一連のものとして書いています。だから、これを切り離す方が間違っているのです。第百段の双六の話は、第百九段の木登りの話と被ります。しかし、これは、第百十一段のためには必要な内容でした。こう読んだ時に、兼好の主旨が見えてきます。
      ソーシャルメディアの例に共感します。この段は、現代に通じる内容ですね。

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