第百二段  一目置かれた衛士

 尹大納言光忠入道、追儺の上卿をつとめられけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎男を師とするより外の才覚候はじ」とぞ、のたまひける。かの又五郎は、老いたる衛士の、よく公事になれたる者にてぞありける。近衛殿着陣し給ひける時、軾(ひざつき)を忘れて、外記を召されければ、火たきて候ひけるが、「先づ軾を召さるべきや候ふらん」と、しのびやかにつぶやきける、いとをかしかりけり。

尹(いん):弾正台の長官。弾正台は、風俗を正し、朝廷内外の不法を弾劾することを司る役所。
追儺:悪鬼を追い払う儀式。大晦日に行われる。
上卿:宮中で公事を行う時大臣・大納言・中納言の中から臨時で長に選ばれた者。
(又五郎)男(をのこ):身分の低い男に付けて呼ぶ接尾語。
衛士:衛門府に属する武官。諸国の軍団から毎年、交代で上京し、宮中の警護などをする。軾(ひざつき):儀式の際、地上にひざまずく時に敷く半畳の敷物。こもや畳で作る。

「尹の大納言源光忠入道が追儺の上卿をお勤めになった時に、洞院右大臣殿に式の順序を教えを請い申し上げたところ、「又五郎めを師とするより他の算段はございません。」とおっしゃった。その又五郎は、年取った衛士で、よく朝廷の儀式に慣れている者であった。近衛殿が陣の座にお着きになった時、軾を忘れて、外記をお呼びになったので、又五郎は火を焚いて居りましたが『まず軾を持ってこさせるべきではないでしょうか。』と小声でつぶやいたのは、たいそう面白かった。」

有職・故実に通じている衛士に、身分の高い者が教えを請うたり、たしなめられたりするエピソードである。有職・故実に通じていることは、時に身分より優先されることがある。兼好は、それが愉快だったのだろう。兼好が身分よりも有職・故実の知識を重んじていることがわかる。

コメント

  1. すいわ より:

    入道が結局、又五郎に教えを乞う事をせず、当日、失敗に気付き人を呼びにやろうとしたところを又五郎が見て、今は人を呼ぶより先に軾を持って来させるのが先だ、と見て取られていた事を面白く思ったのだと思いました。庭先で火焚きの雑用をするような男であっても故実を重んじ知り尽くしている者を軽んじたばかりに大切な時に失態を犯す。兼好は面白かったでしょうね。故実に関わらず、人に教えを乞うときは確かに年齢、身分など取り払って臨んでこそ、だと思います。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、そう解釈した方が面白いですね。私は、近衛殿が軾を忘れたと読みましたが、全体を入道の所作と読んだ方がいいようです。後半を近衛殿の話として切り離したのでは、兼好の面白さがはっきりしません。入道は教えを請わなかったのですね。納得が行きました。

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