第九十七段   「仁義」「法」の困難さ

 その物に付きて、その物を費しそこなふ物、数を知らずあり。身に虱あり、家に鼠あり、国に賊あり、小人に財あり、君子に仁義あり、僧に法あり。

「その物に附属して、その物を費やしてダメにする物が数知れないほどある。人の身にシラミがあり、家にネズミがあり、国に盗賊があり、小人に財産があり、君子に仁義があり、僧に仏法がある。」

第一文で以下に共通する事実を述べる。次にその具体例が列挙される。レトリックで言うところの列叙法が使われてる。
それらは意味内容から三つに分類される。すなわち、①「身に虱あり、家に鼠あり、国に賊あり」と②「小人に財あり」と③「君子に仁義あり、僧に法あり」である。①は、無条件で害を及ぼす物である。②は、無条件でとは言えない。組み合わせに難がある。「財」は「小人」が有するからその身を損なうのであって、「大人物」なら、必ずしもそうならない。以上は、その理由が常識的で自明である。それに対して、③は、常識に反している。君子に仁義があるのも、僧に仏法があるのも当然のことである。むしろ、それこそが必要条件であろう。仁義を欠いた者は君子とは言えないし、仏法に沿わない者は僧とは言えない。したがって、③は、逆説・paradox(=真理に背いているようで、よく考えると一種の真理を表している表現法。)である。理由が省かれている。したがって、読み手はここで立ち止まって、その理由を考えることになる。
たとえば、次のように考えることができる。「仁義」を実行するのも、「法」に従うのも容易なことではない。かなりの困難が伴う。時にはそれに反する行為も出て来るに違いない。すると、人は「君子」なり「僧」なりの立場を守ろうとする。虚栄心が働くからである。事実を隠し、それを虚飾しようとする。こうなると、もう「君子」でも「僧」でもなくなる。まさに、「仁義」や「法」が「その物に付きて、その物を費しそこなふ」ことになる。
ここで、兼好が言いたいのは、「仁義」や「法」の実現の困難さであり、「君子」や「僧」の有り難さである。「君子」や「僧」は、言わば、「仁義」・「法」実現の過程を指し示しているのであって、固定化した地位や立場ではないのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    この段、大きなクリスマスプレゼントですね。短い分の中に沢山の問いが込められています。学校でみんなで考えてみたい段です。
    実現のための血の滲むような努力を知ればこそ敬意の対象になるのであって、ハリボテの豪華な冠や法衣など、滑稽なだけです。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。答えはいろいろ出そうです。私の答えは参考です。
      学校なら楽しい授業になるでしょう。

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