《風の恨めしさ》

題しらす よみ人しらす

ふくかせをなきてうらみようくひすはわれやははなにてたにふれたる (106)

吹く風を泣きて恨みよ鶯は我やは花に手だに触れたる

「吹く風を泣いて恨め、鶯は。私は花に手でさえも触れているか。」

「恨みよ」と「鶯は」で二度切れる。「鶯は」と「吹く風を泣きて恨みよ」は倒置の関係にある。「恨みよ」は、下二段活用の動詞の命令形。「恨め」の意。「やは」は「や」も「は」も係助詞で、反語を表す。文末が係り結びで「たり」の連体形「たる」になっている。「だに」は副助詞で、程度の低い場合を挙げて、他の場合は当然だと言う。「・・・でさえも」という意。
鶯が私を見て鳴い(泣い)ている。あたかも、私が花を散らしたかのように。しかし、私は花に手でさえも触れていない。まして散らそうとなどしていない。花が散るのは風のせいであって、私は無関係だ。恨むなら風を恨んでくれ。私を見て泣くのは止めてほしい。といった意味を表している。
作者は、桜を散らす風が恨めしくてならない。風を憎んでいる。すると、鶯の声が聞こえてくる。ところが、その声は、まるで作者が桜を散らす犯人で、恨んで泣いているかのように感じられる。もちろん、濡れ衣である。作者も同様に泣きたいくらいなのに。散る花への悲しみによって、快いはずの鶯の声さえこんな風に聞こえてしまうこともある。そんな思いを詠んでいる。

コメント

  1. すいわ より:

    105番の歌より桜も鶯も距離が近く感じられます。「お前は枝に留まって泣いているけれど、私は枝どころか花にさえ触れていないのだよ、恨むのはお門違い、お前も私も憂き目に合わせているのは風ではないか。恨むのなら風を恨めばよかろう?」桜を散らす犯人が誰なのかは分かっている。でも風を止める事は出来ない。この口惜しさ、誰かのせいにしたい気持ちを鶯に肩代わりさせたのですね。

    • 山川 信一 より:

      「この口惜しさ、誰かのせいにしたい気持ちを鶯に肩代わりさせたのですね。」は、的確な鑑賞です。たしかに、どうにもならないことを誰かのせいにしたくなることがあります。この場合、それを自分の代わりに鶯にそれをさせる、鶯こそ自分の代弁者なのですね。
      私の鑑賞は、作者の関心がやや鶯に傾きすぎていました。

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