赤舌日(しゃくぜつにち)といふ事、陰陽道には沙汰なき事なり。昔の人これを忌まず。この比、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、「この日ある事、末とほらず」と言ひて、その日言ひたりしこと、したりしこと、かなはず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事ならずと言う、愚かなり。吉日をえらびてなしたるわざの、末とほらぬを数へて見んも、又等しかるべし。そのゆゑは、無常変易(へんえき)の境、有りと見るものも存せず、始めある事も終りなし。志は遂げず、望みは絶えず。人の心不定なり。物皆幻化なり。何事か暫くも住する。この理を知らざるなり。「吉日に悪をなすに必ず凶なり。悪日に善をおこなふに、必ず吉なり」と言へり。吉凶は人によりて、日によらず。
赤舌日:陰陽道で万事に凶とされる日。一年に六十日有る。
末:終わり。終末。
無常変易:人間や人間界が流転変化すること。
「赤舌日という事、陰陽道ではなんら問題にしない事である。昔の人はこれを不吉として避けない。近頃、何者が言い出して避け始めたのか、『この日に在る事は、終わりまで上手く行かない。』と言って、その日言っていた事、していた事は成就せず、得た物は失ってしまう、計画した事は成功しないと言うのは、馬鹿げたことである。吉日を選んでわざわざしてことが、終わりまで上手く行かないのを数えてみるとしたら、その数も同等になるに違いない。その訳は、この世は無常変易の場で、目の前に在ると見えるものも存在せず、始めがあることも終わりまで続くとは限らない。志は遂げず、望みは絶えることがない。人の心は一定でない。物は皆絶え間なく変化するのだ。一体何がしばらくでもここに留まっているか。赤舌日を忌む者は、この道理を知らないのだ。『吉日に悪いことをすれば必ず悪い結果が出る。悪い日に善を行えば必ずよい結果が出る。』と言っている。吉凶は、人によって決まるのであって、日の良し悪しによるものではない。」
赤舌日は縁起が悪いという迷信を二重に否定している。まず陰陽道に無いこと、次に無常変易の真理に反することを根拠に挙げる。論理的で説得力がある。言われてみれば至極もっともな理屈である。ただ、ここには、いい加減な習慣を許さない厳しさがある。まさに、手加減無き徹底的な否定である。兼好は、それほどこの手の迷信に腹を据えかねており、一方、その手強さを知っていたのだろう。
それにしても、人はなぜこう言った迷信を信じたがるのだろう。この態度は現代でも変わりない。第八十八段の小野道風が書いた和漢朗詠集もそうだが、人は信じたいものを信じたがる。迷信もそれで、要するに思考停止を好むのだ。なぜならその方が楽だから。人の心の弱さの表れなのだろう。
現在、ドラマでも学校教育でも「信じる」ことを推奨する。しかし、「信じる」ことに対する掘り下げ方が足りない。「信じる」ことは手放しで推奨すべき態度ではない。思考停止に繋がるからだ。また、信じるにしても、信じる中身が肝心なのだ。何を信じるかがその人の価値を決めることもある。もっと慎重でありたい。
コメント
漠然とした恐怖なり不安なり、そうしたものから僅かにでも逃れる術として占いに頼ったりするのでしょうね。緊張をほぐす為のささやかなおまじないが時に必要な時もあるけれど(痛いの痛いの飛んでいけ、のような)、とかく人間は易きに流されやすく(これが思考停止の状態ですね?)根拠のない妄信の暴走は恐ろしい。責任を取りたくないから誰かのせいにしたい。主体のないお化けはこうして生み出されるのでしょう。「常識」だってあくまでも今現在はそうかもしれないけれど、永遠に通用するものでもない。自分で積み重ねてきたものに対しては紛う事なく自分のものだから信じて良いものだと思うけれど、自分の外側のものに対して確信を持つのは難しいものだと思っています。信じる責任というのもあると思います。
同感です。『徒然草』の文章は、読み手の思いを誘ってくれますね。言わば、ツッコミを入れたくなります。それがよさなのでしょう。
賛成でも反対でも、言葉にしてみることがいいですね。