第八十段   法師・貴族は武術に手を出すな

 人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵(つわもの)の道を立て、夷(えびす)は弓ひく術知らず、仏法知りたる気色(きそく)し、連歌し、管弦を嗜みあへり。されど、おろかなるおのれが道よりは、なほ人に思ひ侮られぬべし。
 法師のみにもあらず、上達部・殿上人、上ざままでおしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は、運に乗じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵尽き、矢窮まりて、つひに敵に降らず、死をやすくして後、はじめて名をあらはすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近きふるまひ、その家にあらずは、好みて益(やく)なきことなり。

上達部・殿上人:上級貴族。
人倫:人間。

「人はみな自分の身に縁遠い事ばかり好んでいる。法師は武術に堂々と励み、荒武者は弓を引く方法を知らず、仏法を知っている顔つきをし、連歌し、音楽を共に楽しみ稽古し合っている。しかし、おろそかな自分の専門の道よりは、やはり人に心中で侮られてしまうに違いない。
 法師ばかりではなく、上達部・殿上人、更に上の方まで、一般に、武術を好む人が多くある。百度戦って百度勝っても、それだけで武勇の名誉が定まることは難しい。その理由は、幸運に乗じて敵を破る時、勇者でないと言う人はいない。しかし、武術とは、兵士が尽き、矢が無くなって、最後まで敵に降参せず、死を素直に受け入れて後に、初めて武勇の名誉を明らかにできる道なのだ。生きているとしたらその間は、武勇について誇るべきではない。人間に遠く、鳥獣に近い振る舞いは、その家に無いならば、好んでも利益の無いことなのである。」

人は一般に専門でないことを好む。たとえば、法師が武術を好み、武士が歌や音楽を好んだりする。しかし、いくら好んで励んでも、たとえいいかげんでも、その人の専門ほどは評価されることはない。武術について言えば、法師ばかりでなく、身分の高い貴族たちまでが好む。しかし、武術は命がけのもので、生半可なことでは名誉を得られず、そもそも人の道に外れている。このように説く。
主旨は、自らの専門の道を励むべきであり、特に法師や貴族は武術に手を出すべきでないということだ。これは、法師や貴族までが戦う内乱の世を批判したのだろう。
「人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。」は現代人にも通じている。一般にこういう傾向が認められる。なるほど、趣味というのは、本業とは懸け離れている方が息抜きとしてもいい。医師や銀行員などのお堅い職業人が短歌や俳句を好むことがよくある。また、芸能人が芸術やスポーツに励むこともある。その場合、意外性が評価されることもあるから、一概に「おろかなるおのれが道よりは、なほ人に思ひ侮られぬべし」とは言えないかも知れない。しかし、いずれにせよ、本業をおろそかにしてまですることではないのは確かだ。

コメント

  1. すいわ より:

    「無いものねだり、下手な横好き」はヒトの特徴なのでしょう。果てしない欲望と無責任な自己満足。それの為に本業が疎かになってしまっては本末転倒。リフレッシュの為に本業とはかけ離れた事をするのは悪い事ではないけれど、何事もバランス。無責任だから楽しい、辛い責任を手放し楽しい方に傾いたら、あっという間に「専門」は失われていく。なるほど、お金にならないプロが絶滅危惧種になる訳ですね。

    • 山川 信一 より:

      今も昔も専門に熱心ではないのは、できて当然と思われるからでしょうか?それで、意外なことができる方が受けがいいと思うからでしょうか?
      それとも、心ならず何かを専門にしてしまい、本当は別のことがしたいからでしょうか?移り気で一つのことでは満足できないからでしょうか?
      様々なケースが考えられそうです。専門が好きであるに越したことはありません。

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