第七十七段   情報通の法師

 世の中にその比人のもてあつかひぐさに言ひあへる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそうけられね、殊にかたほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、わがごとく尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覚ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。

もてあつかひぐさ:話の種。話題。
案内:内情。様子。
かたほとりなる:賑やかな所や中心から離れた、周辺の辺鄙な所。
める:視覚推定の助動詞「めり」の連体形。

「世間でその頃人が話題として言い合っていることを、答えるべきではない人が、よく内情を知っていて、人にも語り聞かせ、自分からも問い聞いていることは受け入れられないが、片田舎の聖法師などが、世間の人の身の上に関することをば、自分のことのように尋ね聞き、どうしてこれほどまでに知ったのだろうと思われるぐらい、言い散らすようだ。」

世間に出回る話題について、自分に関係無いにもかかわらず、せっせと情報集めに励み、驚くほどの知識をひけらかす。しかも、法師にそういう人がいると言うのだ。兼好は、同じ法師として、批判せずにはいられないのだろう。
しかし、この態度は他人事で済まされない。現代でも引き継がれていて、対面による噂話だけでなく、Twitterやワイドショーなどにも現れている。人はいつの世も、訳知り顔をし、一目置かれたがるようである。

コメント

  1. すいわ より:

    当時の法師たちの間の情報収集は七十六段で語られた「甘い汁を吸う」為の手段でもあったのでしょう。そして美味しい餌をばら撒く役割をも果たしていたのですね。知っているという優越感を満たしつつ、当事者でないから責任を負う必要もない。
    「そんな事も知らないの?」と訳知り顔でマウントを取る人、今でもそこかしこにいます。むしろ、情報の価値に重きを置かれる現代ではそれが武器、凶器になりかねないのが笑えない現実です。情報に流されて気付いたら裸の王様だったなんて事もあるのでは。情報を操る者勝ち。美味しい餌には気を付けないと。

    • 山川 信一 より:

      『徒然草』が今で高い評価を受けているのは、その批判が今にも通じるからですね。読んでいてホントにこう言う人っているなあと思えてきます。
      我々は過去から一体何を学んできたのでしょうね。いつまで経っても賢くなれない。だから、科学文明に翻弄されるのです。科学は過去踏まえている発展しています。

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