《高嶺の桜》

ひえにのほりてかへりまうてきてよめる つらゆき

やまたかみみつつわかこしさくらはなかせはこころにまかすへらなり (87)

山高み見つつ我が来し桜花風は心に任すべらなり

山高み:「み」は、一般に原因理由を表すと言われている。「・・・がので」。しかし、「・・・として」「・・・という状態で」とも解せる。
べらなり:状態の推量を表す。「・・・に違いないようだ」「・・・のようすだ」

「比叡山に登って帰って参りまして詠んだ  貫之
山が高い状態で見い見いしながら私が帰って来た桜花。その桜花を風は心のままにしているようだ。」

山桜は、山が高くて手が届かないので、近づくことも折ることもできない。しかし、風は、そばに寄ることができるので、思いのままにしているようだ。そう風を羨む。そのことで、比叡山の桜の崇高な美しさとそれに近づけない物足りなさを表している。この歌も桜に風を取り合わせている。しかし、これまでのような単なる悪役ではない。羨ましい存在になっている。風をこんなふうに扱うこともできることを示している。

コメント

  1. すいわ より:

    まさに「高嶺の花」ですね。山桜を見ようと比叡まで来たものの、桜の花の咲く所までは到底辿り着けない。『山のあなた』のように「涙さしぐみかへりきぬ」、振り返り振り返り、後ろ髪引かれる思いで帰ってくる。憧れの思いは、より桜の美しさを増幅させますね。そんな時、頬を撫でる風の暖かさにまた山を見上げる。ああ、この風は一瞬にして山を登り桜の枝を揺らすのだろう。山の神のもとへ通う風の神、手に入れられない山桜の崇高な美しさは人の域のものではないのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      素敵な鑑賞ですね。歌の技巧はあくまで感動を伝えるためのものです。そこに気をとられて、肝心の感動に目が行かないことがあります。これでは本末転倒です。
      ここでは、山桜の崇高な美しさを伝えるために風が用いられています。詞書きも有効に働いています。

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